大井・鹿島谷の湧水と川跡(3)暗渠、大森貝塚、そして荏原台末端の湧水
2009年 11月 14日

暗渠は通りを越えると、綺麗なS字形に蛇行して東に下って行く。かつては左岸はお屋敷で、川は鬱蒼とした森の中を流れていたという。暗渠沿いに並ぶ大木はその名残だろうか。

暗渠はJRの線路に突き当たっていったん行き止まりとなる。線路沿いに左岸の斜面を上がったところが大森貝塚だが、直接は行けないので、いったん池上通りに戻り、品川区の大森貝塚遺跡庭園から回り込むこととなる。
大森貝塚はエドワード・S・モースが1877年、東海道線の車窓から発見、発掘した縄文時代後期の遺跡で、貝殻のほか、土器や土偶、人骨なども発見されており、日本考古学発祥の地とされる。
長らく正確な場所がはっきりせず、そのため大田区側にも大森貝墟の碑が立っているのだが、最終的に1984年に品川区側だったと判明した。つまり大森貝塚は大森ではなく大井にあったということだ。公園内に、縄文時代の近辺の様子を描いたイラストがあるが、ちょうど鹿島谷のところに小川と泉が描かれていた。縄文時代ここに暮らしていた人々はおそらく鹿島谷を流れる清水を生活に使っていたのだろう。
公園南東側の斜面を下った線路際に貝塚碑が建っている。

遺跡庭園の北側の道路を東側に向かうと、JRの線路を「桐畑地下道」で潜って線路東側の低地に出ることができる。地下道の出口はちょうど荏原台の東端となっていて、片隅に湧水が湧き出している。石組みの小さな池に金魚が泳いでおり、あふれ出した湧水は側溝へ流れ込んでいる。

線路沿いに南に進むと、先ほどの鹿島谷のちょうど向かいに、暗渠の続きがある。ここからは谷を出て、平地となる。縄文時代は海だった場所だ。

暗渠はしばらく続いたのち、区画整理された普通の道路になる。この先、しながわ水族館のあるしながわ公園近辺で東京湾に注いでいたはずだが、痕跡はない。
これにて鹿島谷の流れを辿り終えるが、最後に近くの湧水ポイントに寄り道。いったんJRの線路沿いに戻り、線路沿いの水神公園を北上、先ほどの地下道の湧水を通り過ぎて、更に北上すると、マンションに囲まれた交差点の一角に「大井水神社」がある。この境内に、(かつての)湧水池がある。ここも荏原台の東端の麓に位置する。台地の地下を流れて来た水が、低地に出るところで湧き出していたのだろう。この湧水はかつて、「柳の清水」と呼ばれる名水で、1685年に水神社が祀られた。近隣住民の貴重な飲用水や農業用水として利用された他、歯痛に効果もがあったとか(原の水神池は眼病)。湧水は70年代半ばにほぼ枯渇し、以後、地下水の汲み上げで維持されている。
池は澄みきっており、循環ではなくいわば掛け流しで地下水を流しているのだろう。それにしても、今回まわった3カ所の池はいずれも柵で囲まれており、いくら安全上の理由とはいえ水辺に近づけないのがとても残念だ。

溶岩石で組まれた水神社の祠の前には、石で組まれた自噴井戸があり、わずかに水が流れ出ている。これがかつての湧水だったのだろうか。

以上で荏原台の最東端の湧水と川跡を辿るシリーズは終わり。あまりなじみのない土地であったが、暗渠も湧水も、予想外に見所の多い谷だった。
通りすがりのコメントで恐縮です。
さしつかえなければ教えていただきたいことがございます。
記事冒頭の山王橋に関する部分で、その地に山王橋があったとのことですが、それはどちらでお知りになりましたでしょうか。
というのも、大森駅西口前の天祖神社脇の階段を登ったところにも「山王橋」と称するものがございまして、それの由来について知りたいと思いましたところ、貴ブログを見つけた次第でございました。こちらも由来がよくわからないので、もしかしたらそちらからこちらへ移設されたのだろうかなどと勝手に想像をふくらませているところです。
それでは、失礼いたします。
こんばんは。山王橋については、確か戦前の三千分の1地形図に記されていたかと思います。天祖神社の脇の「山王橋」は知りませんでした。関係があるのかもしれませんね。


