北区田端・谷田川(藍染川)と谷田橋
2009年 12月 03日
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上野飛鳥山台地の北東の崖下に位置する田端駅。高架の駅舎を出ると、田端駅前通りが台地を切り通しで横切り南西へと伸びている。切り通しを抜け、本郷台地との間の低地に出たところに「谷田橋交差点」がある。標識はないが、交差点には「谷田橋」の名を冠した薬局がある。ここで交差しているのが「谷田川通り」。昭和初期に暗渠化された谷田川の流路である。そして、この川に架かっていたが「谷田橋」だ。正確には現在の駅前通りではなく、数メートル西側、薬局の裏手にある旧道(薬局の右奥の白いビルとの間の道)の方に架かっていた。
谷田川は、北区西ヶ原の旧外東京語大学敷地と豊島区駒込の染井霊園(ソメイヨシノ発祥の地)にあった長池を水源とし、上野飛鳥山台地と本郷台地との間の谷を南東に流れて上野の不忍池に注いでいた川だ。(不忍池からは更に忍川となって東京湾に注いでいた)。
かつては石神井川の流路だったが、その後石神井川は飛鳥山で台地を横切って低地に出る流路になった。これは谷沢川と九品仏川のような河川争奪だったとも、神田川の御茶ノ水界隈のような人工的な開削だったとも云われている。また、下流部では藍染川とも呼ばれていた。有名な谷中のへび道も藍染川の暗渠だ。(なお、大正中期に洪水対策としてつくられた、西日暮里で分岐し三河島方面へ抜ける排水路も藍染川と呼ばれていた)。川は大正後期から暗渠化が始まり、昭和初期にはほぼ全区間が暗渠となっている。
谷田橋の架かっていた場所には今や何の痕跡もないが、交差点から少し駅方向に戻った田端八幡神社の参道に、谷田橋の欄干が保存されている。
全長2メートルほどの石橋で、明治期につくられたもののようだ。昭和初期に、暗渠化の際に記念に移設されたという。キックボードに乗った小学生の女の子が颯爽とやってきて、橋のたもとで神社に手を合わせ、去って行った。彼女はこの橋に気がついているだろうか?
参道のとなりには「赤紙仁王」が2体。1641年の造立とされる。もともとは神社の参道にあったが、明治時代の神仏分離策で、隣の東覚寺境内に移った。病気のある箇所に赤紙を貼って祈願し、治ったらわらじを奉納するという信仰があり、今でも時期によっては仁王像の表面が見えなくなるほど赤紙が貼られている。
赤紙仁王の前から谷田橋交差点にかけては、現在区画整理事業が進行中で、風景が大きく変わりつつある。関東大震災後に計画され、終戦直後に起こった区画整理事業で途中まで建設されたものの、中途で挫折していた道路建設が、数年前から再開されたのだ(仁王像自体が、道路予定地のため場所を移動している。)。80年以上の歳月をかけて完成する道路に果たして意味はあるのだろうか・・・
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幼少期から社会人になるまで過ごした町を横切る「谷田川通り」。日々の生活での通り道として、あるいは自転車で谷中・上野方面へ行くときのルートとして、幾度となく通ったこの通りがかつて川だったのを知ったのはいつの頃だろう。おそらく最初に聞いたのは祖父母の話からだったように思う。そして、小学校のときに学年の先生が中心となって編纂した、地域に昔から住む人からの聞き書き集では、様々な人が、この川について触れていた。
今では曲がり具合以外には何の面影もない道に秘められた、川の記憶。
今では失われてしまった、「故郷」の風景。
神社の片隅にひっそりと残る橋。道路の下に埋もれ、流れるかつての川。
そういったものへの思いが、その後の自分の川跡への興味へとつながっているような気がする。
田端、以前に比べると商店街がだいぶ寂れてしまったりしてずいぶん風景が変わってしまいましたが、まだところどころ「文士村」だったころの名残もあるかもしれません。谷田川は杉並の暗渠などに較べると、全然川跡らしさはないんですけど、もし機会があれば辿ってみて下さい。
亡くなった母親が千駄木の生まれなので、よくへび道のことは聞かされていました。 確かにへびのようにくねくねとまがっていました。
藍染川の暗渠とはわかっていましたが、どのような川かしりたくてこのブログを拝見しました。
実に興味あるないようでした。
今後とも頑張ってください。
千駄木にお生まれの方ならへび道は身近な存在だったのでしょうね。
へび道についてはこちらの記事でもちょっと触れていますので、ご参考まで。
http://michikusa-ac.jp/archives/541138.html