「だいだらぼっち」の川(北沢川下北沢西支流)
2009年 12月 11日
民俗学者柳田國男の「ダイダラ坊の足跡」には、「ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。」とある。ダイタの橋とは、玉川上水に架かっていた「代田橋」、薬研とはV字型の溝を指す。5、6町は550~660メートル、百間は180メートルだ。日本各地に残るダイダラボッチの伝説、そのひとつがここにある。
この記述に基くと、環七を跨ぐやや浅い窪地がつま先、そしてその東側に伸びる深い窪地の底、世田谷区立守山小学校の北東側のあたりが踵となり、つま先から踵までは小川が流れていて、踵のところに湧水池があったということになる。
この「だいだらぼっちの足跡」の湧水を水源として、南に下り、下北沢駅の南方で森厳寺川(北沢川下北沢東支流)に合流していた小川が北沢川下北沢西支流、通称「だいだらぼっちの川」だ。
写真の道路にそってかつて川が流れており、道路の手前右手のあたりに湧水池があったという。現在は住宅が立ち並び、往時の姿を想像するのは難しい。
川の流れる谷は幅は狭いが、谷の斜面はかなり急で、はっきりした谷となっている。
各所に川の名残が残る森厳寺川に比べ、こちらはほとんど川の痕跡はないが、井の頭線を越えるところは唯一川跡らしい。
そして、何と井の頭線の線路を越える前後のわずかな区間だけは、開渠が残っている。写真は線路を越えた南側の様子だ。右側の土管からわずかだが綺麗な水が落ちており、また左側からかなりの量の水が流れ込んでいて、水の流れ込む音が鳴り響いている。
この水は井の頭線の線路沿いの側溝から流れ込んで来ている。実は井の頭線はここから新代田駅にかけての区間、だいだらぼっちの谷の枝谷につくられている。この側溝はいつきても綺麗な水が流れており、もしかするとこの側溝は川の名残で、流れる水は谷に湧く湧水かもしれない。
ここより先、流路は東向きに変わる。しばらく痕跡がはっきりしなくなるが、おそらく谷底の一番低いところを通っている道が川跡の暗渠であろう。向かう先には小田急線が見える。
小田急線はだいだらぼっちの川の谷を土手で越えている(写真は2004年頃)。
小田急の土手の南側から、ふたたび暗渠の道が現れる(写真は2004年頃で、現在小田急線の工事で土手は見えない)。暗渠は谷の西側の縁に沿って、谷底よりもやや高いところを流れている。もしかすると並行する流路があったかもしれない。
しばらく写真のような暗渠らしい道が続いた後、川は下北沢駅南口の商店街の道に出る。
その先は、道沿いにしばらく南下した後に森厳寺川に合流していた。
ざっくりと削られ蛇行する谷を流れる川の源流が、ダイダラボッチの足あとの窪地というのはよく聞くのですが、谷自体は井の頭通りまで伸びています。そこには源は無いのでしょうか。谷は、更新世に台地を削った川の痕跡なのでしょうか。あまりにも綺麗な谷なので、その谷の成因が気になってしまいます。
それにしても下北沢と新代田間に開渠があったとは・・・。私もびっくりしました。
この辺り、代田連絡線(戦災で消失した井の頭線の車両を補充するため、小田急線との連絡線がありました)の線路跡を探しついでに歩いてみたい箇所です。
確かに谷筋は池があった地点よりもう少し北までのびていますね。ただ、「東京地形地図」の等高線表示でもわかるように、井の頭通りよりはかなり手前(南側)が谷頭となっていて、その先は森厳寺川の方への分水嶺となっています。この谷、深い割には幅も狭くてかなりはっきりした谷筋ですよね。どうやってできたのか、気になるところです。
そうなんです。川自体のはっきりした形跡があまりないのに、開渠のところだけは逆に川そのものが残っているという、不思議な川跡です。
井の頭線は川ととても関わりの深い路線ですよね。新代田から明大前手前までも川の谷で、開渠と絡みながら線路が進んでいますし。そういえば以前明大前のホームに「無事湖」(むじこ)という池もありました。
あの水の出所、何とか探ってみたいです。いつも綺麗なので、何かの排水とは考えにくいし、湧水ではないかとふんでいます。
代田連絡線、ほとんど痕跡は残っていないようですね。世田谷代田駅のホームの北側に、わずかに線路跡の空間が残っていますが、立体化工事で消滅してしまうかもしれません。