谷沢川上流部(2)源流部(世田谷通り以北)
2010年 02月 13日
現在確認できる谷沢川の最上流部は、世田谷通りの東京農大前交差点の北側。いきどまりの未舗装の路地の奥から、コンクリート蓋暗渠が始まっている。すぐ裏手の東京農大前の道沿いは尾根筋となっていて、かつて品川用水が通っていた。そして、この水路は一時期、品川用水からの分水路としても使われていたという。分水が廃止された後も、谷に湧く水には品川用水からの漏水が混じっていたことだろう。また、用水には湧水自体への涵養効果もあったはずだ。

暗渠はすぐに道をまたいで反対側に移る。跨ぐ部分もしっかりと蓋暗渠が残っている。

蓋暗渠を横から見ると、所々に道路の水を取り込む穴が開いていて、路上に降った雨水が暗渠の中にしっかり流れ込む作りとなっている。

道沿いに続く蓋暗渠。一見歩道のように見える。

暗渠内の点検用の鉄蓋には、世田谷区のマークがあった。

この先、暗渠は道に沿ってクランク状に曲がり、商店の軒先を通ったのち、住宅地の中へと突入していく。軒先のところでは、暗渠の蓋に隙間があり、中をのぞきこむときれいな水が勢いよく流れていた。数日前に降った雪が少しずつ溶けて流れ込んでいるだろうのか。
住宅地の中に立派な暗渠がつづいているが、家々の間を流れていて、暗渠沿いに歩くことはできない。暗渠の上も立ち入れないので、あちこちを縫うように回りこんで、横切る道から覗くことになる。地図上の変遷から推測すると、この区間に蓋がかけられたのは90年代以降のようだ。
暗渠の上は庭代わりになっていたり。

橋の痕跡もあった。

このあたりでは暗渠の中から水の音が聞こえた。雨水溝に集まった雪解け水が流れ込んでいるのだろう。周囲の住宅の屋根にはまだ雪が残っていて、溶け出した水があちこちで屋根に音を立てて滴れている。
途中、北側の支谷からの川の暗渠が合流する。こちらは桜丘3ー20まで遡ることができる。本流は、写真奥を左から右へと流れている。暗渠の蓋と家々の塀の間のわずかな隙間に、雑草が逞しく生えている

徐々に世田谷通りに近付いてくると、開渠となっている区間が出現する。意外にも澄んだ水が勢いよく流れており、水沿いにも雑草が生えていて雰囲気は悪くない。左側からは、前回紹介した支流が合流している。こちらの支流もはっきりとした谷筋から流れ出しており、水が流れている。

世田谷通りの下へ。ここより先は用賀まで暗渠が続く。

通りの南側に、欄干が残っている。その向こうに暗渠が続いているのが見える。

参考までに、用賀駅以北の谷沢川の流路地図(goglemap)。
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周囲を廻ってみると丘を上がったところに農大成人学校の大きな農地がありますよね。きっとこの施設は取水しやすい場所に作ったはずだし、すると品川用水はまずここの敷地付近を経由して、3-12、3-11の東側あたりの谷沿いに流れて、それで3-8で顔を出すのかな、なんて想像をしていました・・・。しかし、成人学校の土地の成り立ちや歴史がまだ調べきれずにいるので全く決め手に欠ける妄想ですがww
わたしが本格的に川跡探検にのめり込むきっかけになった物件のひとつです。
品川用水から世田谷領内に引かれた分水については、千歳通りの桜並木に掲出されたパネルにかなり詳しい説明が記されています。
三田義春氏の研究がそのまま反映された内容で、
「世田谷領の3ヵ村は先の書き付けを楯に猛然と反対しましたが、幕府権力の前には書き付けは一片の空文となり」
など、郷土愛に満ちた微笑ましい文章です。
文面の採録 → tanken.life.coocan.jp/setagaya/text/991218_014.html
幕府権力によって廃止されたはずの分水の痕跡が4つとも残っていた、というのはわたしの水路探検の「大発見」のひとつですが、実はすべて三田氏に仕組まれていたことなのかもしれません。
用水からの取水はふつう伏樋で行われますので、接点となる水路は地上にはありません。地形から類推することもむずかしいです。
まして公的には廃止された存在ですから偽装されていたとしても不思議はありません。実はかつてはそれを伺わせる痕跡がありましたが‥‥既に消滅しました。
で、成人学校ができたのは品川用水の廃止はるか後ですので、品川用水との関係はありません。
下で庵魚堂さんも書かれていますが、分水ポイント、分水元の用水路がない今となっては特定するのは困難でしょうね。
庵魚堂さんのルーツの場所のひとつだったんですね。引水、漏水、盗水・・・水をめぐる昔の人たちのドラマにはいつも唸らされます。
そうですね、おおっぴらに取るわけにもいきませんよね。
当時の「水利権」って、村単位の死活問題がかかった大テーマだった、というあたりまえのことを改めて考えさせられました。


