矢川(1)暗渠となった最上流部を辿る
2010年 06月 22日
現在の主水源は、JR南武線西国立駅から南に500m、立川市羽衣町にある「矢川緑地」の湧水だ。東京の名湧水57選に選ばれている著名な湧水だ。矢川はここから南東に立川段丘の崖線の下に沿って流れ、ひとつ下の青柳段丘の斜面を下って、府中用水の谷保支流に合流している。(府中用水は国立市青柳で多摩川より分水され国立市内、府中市内を網の目のように分岐したのち再びまとまって多摩川に戻る用水路で、流域の一部は今でも水田が残り、現役の農業用水路として使われている)。
矢川緑地内を流れる矢川。写真の右側には湧水と矢川の水をひいた池が、左側には湿地帯が広がる。

湿地帯は高原の風景のようなすがすがしさ。

さて、一般的には矢川の源流は「矢川緑地」とされることが多いのだが、実際には川は緑地の中央を東西に抜け、さらに西に延びている。
矢川緑地の西側を南北に通る「みのわ通り」東側から矢川緑地方面を望むと、矢川の流れが見える。

「みのわ通り」をくぐって、50mほど西側に進んだ、矢川弁財天の北側に接する一画が、現在辿れる矢川の流れの最上流端だ。写真はみのわ通りからみた最上流端。

みのわ通りの下は、めがね型のトンネルとなっている。実は「みのわ通り」自体が、JR立川駅北側から南に下って多摩川に注ぐ人工河川「緑川」の暗渠で、矢川とはここで立体交差していることになる。このトンネルは緑川が開渠だったころからあるものだろう。2つの水路の高低差と、強度の問題からめがね型になっていると思われる。

最上流端では、川を覆う鉄板の下から清冽な水が流れ出しており、それより先は暗渠となっている。暗渠から流れだす湧水は澄み切っていて、水量も多い。水面も妙に揺れており、暗渠の中を延々とながれて来たのではなく、暗渠に入ってすぐの辺りで湧き出していそうだ。

鉄板を上からみたところ。鉄板の先はアスファルトの道路。右側(南側)は矢川弁才天の敷地となっている。

暗渠の中をのぞいてみると、少し奥からコンクリートの水路が続いてきているようだが、奥までは見えない。

隣接する矢川弁才天の敷地には、湧水(自噴の井戸?)を利用した池が作られている。ただ、水量が足りないのか、水を循環させているようで、池の水質は矢川に比べかなり落ちる。

明治初期の迅速図や明治後期の地形図を見ると、これより先、水路はやや蛇行しながら西にのび、現在の立川市立第七小学校の辺りまで描かれている。昭和初期から10年前後にかけ立川駅南側一帯は耕地整理がされて、格子状に道路がつくられた。明治後期に耕地整理法が施行されて以降、東京近郊各地で将来の宅地化を見越した耕地整理が行われたようだが、このエリアもそのひとつのようだ。その際に、あわせて矢川の上流部も暗渠化されたようだ。
かつての水源まで、川の痕跡を探し遡ってみた。
上流端のすぐ西側、都立多摩職業能力開発センターの北側にそった道。終戦直前の地図では、この区間までは水路として描かれている。「改訂版・立川の歴史散歩」(1990年 立川市教育委員会)によればこのあたりの湧水が現在の矢川の水源ということだが、先の鉄板の下をさしているのか、それともこの道の下に湧水地点があるのか。

古そうな日本家屋の立つ一角から先は、耕地整理時に暗渠化された区間となる。川は暗渠化された際に直線化され、この道の地下を通されたと思われる。

立川崖線の下をまっすぐに伸びる道路。右側(北側)が、立川崖線の斜面となっている。川は本来この道より左側(南側)を曲がりながら流れていたようだが、現在その痕跡はまったくない。

立川通りを越えしばらくいくと、ようやく南側に曲がりくねった暗渠の道が分かれる。立川市立第七小学校の敷地の北側に沿った道は、いかにも川跡の雰囲気を漂わせている。

曲がりくねった湿っぽい路地の北側は崖や斜面となっていて、いかにも川跡といった雰囲気だ。「改訂版・立川の歴史散歩」によれば、かつて立川市立第七小学校の北側正門付近に「井戸端」と呼ばれる湧水池があり、ここが矢川の源流だったという。

北側正門の先にも、暗渠らしき道は続いている。道端には雨水溝。道はどんどん細くなって、登り坂となっていく。ブロック塀の下にわずかにある玉石の護岸は、水が流れていたころのものだろうか。

川跡の道は錦中央通りに出て終わりを告げる。振り返ってみてみると、かなり細い下り坂の路地。下りきったあたりが最上流端だったのだろうか。

ちなみに、明治初期の地図には、この地点のすぐ西側、都立立川高校の東側の道に沿って南北に水路が描かれている。これを残堀川の旧水路としている文献もある。
狭山丘陵を水源とし、玉川上水と交差し昭和記念公園を横切って流れる残堀川は、江戸時代以降何回にもわたって人工的に流路が付け替えられている。玉川上水の開鑿以前は、矢川につながっていて、現在の府中用水のところを流れていた多摩川に注いでいたらしい。
そんなことから、先の文献では、この最上流の地点と先の南北の水路がつながっていたと考えたのだろう。ただ、立川市刊行の史料では、残堀川の旧水路は立川駅の東側を回りこんで南武線にほぼ平行して南東に流れ、矢川緑地の東側の方で矢川に合流していたような描き方をされている。地形をみても、立川高校の脇は平坦で、自然河川が流れていたとは考えにくく、少なくとも立川駅以南は、おそらく用水路だったのではないかと思われる。
次回は矢川緑地より下流の矢川を取り上げる。暗渠はまったく登場しないが、かつての都区内の川はこうだったかもしれないというような風景が残されている。
ちかぢか国立へ行く予定はあるのですが、きっとここまでは歩いて行けないだろうな・・・でも行きたいな・・・
矢川緑地、なかなかいいですよ。でも国立からだとさすがに遠いかもしれません・・・暗渠の上流端から少し南に行くと、以前namaさんが昭和記念公園の記事でレポートされてた立川用水(柴崎分水)の末端があります(おいおい記事にする予定)ので、そちらとセットでも面白いかもしれません。
ええっ!?「カンバセイション・ピース」の表紙、矢川だったんですか。全然知りませんでした。。。。確かにあの緑は彼の小説に似合う風景かもしれませんね。
大きくクリアな写真がありがたいです。
コメントありがとうございます。湧水エリアとそれより上流側の風景のギャップがなかなかおもしろいと思います。


