古川(渋谷川)白金三光町支流・再訪
2010年 08月 04日
今回は、東京の水2005Revisitedで取り上げ、暗渠本「東京ぶらり暗渠探検」でも記事にした「古川白金三光町支流(仮称)」について再度取り上げてみます。昨年末から今年はじめにかけ、ムックの記事のために渋谷川水系を再訪したのですが、ムック掲載用の他にもブログ記事用に多めに写真を撮っていました。ところがその後、2度に渡るパソコンのハードディスククラッシュによりこの時に撮った写真のほとんど全てがふっとんでしまいました(涙)。が、ムック掲載用候補として送付していた写真については編集Tさんの手元に残っていたことがわかり、幸いにも復旧ができました(Tさん、ありがとうございました)。
そんなわけで「古川白金三光町支流(仮称)」、復旧できた写真の性格上、かなりのものは暗渠本と重なりますが、ムックではモノクロだったところをカラー写真で、ということでご容赦下さい。また本文については「東京の水2005Revisited」の記事をベースにしています。
なお、暗渠本を手にこの白金三光町支流を辿られたという「非天然色東京画」さんのブログで、この暗渠の素敵な写真が先日公開されていたので、リンクしておきます。
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港区白金台4丁目、三田用水白金分水よりも1つ東側の谷から、かつて小さな川が流れ出し、1kmほど北に下って、白金5丁目で、渋谷川下流である古川に注いでいた。この川の水源は東京大学医科学研究所(元・伝染病研究所)と、国立公衆衛生院跡地の間にある窪地にかつてあった池だ。
この川の名前は資料などを見る限りわからなかったのだが、川の流域は旧町名で「白金三光町」にあたる。そして、戦前に刊行された「芝区誌」の白金三光町の項に「この町の中央を東西に二分する渓谷が聖心女学院、伝染病研究所の構内に奥深く食い込んでいる。」と記されていることから、ここでは古川(渋谷川)白金三光町支流と呼ぶことにしよう。
なお、医科学研究所の池跡よりやや西、白金台4ー11付近の窪地には明治中ごろまで旧白金台町3丁目から11丁目(現目黒通り沿い)の下水を集め地面に浸透させていた「悪水溜」と呼ばれる池があったが、明治後期には埋め立てられ住宅地となっている。
下の段彩図で、中央の青いラインが白金三光町支流。右側は玉名川、左側は三田用水白金分水。台地を刻む谷がよくわかるかと思う。悪水溜のあった場所も、いまでも窪地となっていることもわかる。(段彩図はgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。
医科学研究所は、1892年(明治25年)北里柴三郎が設立した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」が前身で、のち内務省所管となり1906年(明治39年)現在の場所に移転してきた。1916年(大正5年)には東京帝国大学付属になり、1967年には伝染病研究所から医科学研究所に改組された。戦前に東大安田講堂などと同じ内田祥三の設計で造られたゴシック風の重厚な建物が今でも現役で残っている(1号館)。医科学研究所には隣接して旧国立公衆衛生院があるのだが、こちらもほぼ同デザインの建物となっている(1940年竣工)。取り壊しの予定だったが、保存運動などの結果、所有が国から港区へと移ることとなり、改修工事を経て2011年度中には地域施設として再オープンするとのことだ。
国立公衆衛生院の建物は高層建築となっているのが特徴的で、一部は8階建てとなっている。裏手の住宅地からみると、かなりの威圧感をもち聳え立って見える。
医科学研究所と旧国立公衆衛生院に挟まれ、木々の生い茂る窪地となっているところに、かつて川の水源の池があった。ここから北へと伸びる谷の谷頭にあたっており、もともとは湧水のたまる池だったのだろう。大岡昇平の「幼年」には、伝染病研究所に入院したときの池周辺の様子が描かれている。
「門を入るとすぐ右側が漏斗形に落ち込んだ地形で、付属病院はその向い側右手の傾斜に臨んで建っていた。対面は聖心女学院であるが、斜面の下の方に池があり、実験用動物小屋があって、夜が更けるとそれら動物たちの何ともいえない悲しげな鳴き声が聞こえた。」
1918年(大正7)、アメリカから持ち帰られた食用ウシガエルのオス12匹、メス5匹が伝染病研究所の池に放たれ、そこで産まれた卵から日本中にウシガエルが広まった。この「伝染病研究所」の池がおそらくこの池だと思われる。ウシガエルは一時期日本各地で養殖され、輸出までされていた。また、1927年にはアメリカザリガニが渡来したが、これはウシガエルの餌にするためだったという。今は亡き小さな川の源の池に、現在も日本各地にいる「ウシガエル」と「アメリカザリガニ」が関係していたということになる(アメリカザリガニの方は大船で繁殖された)。
池は1960年代半ばまでは存在していたようだ。窪地の北側には、谷筋が続いている。谷の斜面には稲荷の祠があり、鳥居が並んでいる。
白金4丁目と白金台4丁目の境目となっている古くからある道から川の流れていた谷を望むと、見事なV字谷となっている。谷底左側が医科学研究所敷地、右側は聖心女子学院の敷地だ。谷の東側の台地上には高級そうな住宅やマンション、大使館などが建ち並んでいる。
谷は聖心女子学院の敷地を南北に横切っている。学院は1915年(大正4)、現在の聖心女子大学の前身、聖心女子専門学校としてこの地に開校した。正門を入ってすぐ右手が谷底となっており、戦前まで池だったというが、現在はテニスコートになっている。知人の祖母が聖心出身ということで昔の様子を聞いてもらったところ、「あの辺は昔は湿地で、葦だかヨシだかが生えた沼があって、はまったら危険だから、生徒はあのエリアに近寄っちゃいけないと言われていた」とのことで、雨が降るとすぐ水浸しになっていたそうだ。
地形図を見ると1916年(大正5年)の1万分の1地形図で、この場所に池が描かれていて、終戦直後に刊行された3千分の1地形図でも湿地として描かれており、証言を裏付けている。
テニスコートの北東側にあたる住宅地の中を彷徨って行くと、谷底に降りる西向きの階段が現れる。
階段を下りきると、谷底には未舗装の暗渠が南北にのびていた。傍らには下水道局管理敷地と書かれた看板がたっている。以前は工事中でショベルカーが立ちふさがり、ここより上流方向には入れなかったのだが、今回は大丈夫そうだったので、南の上流方向に進んで行ってみた。
谷底は明治後期まで浅い池だったようで、昭和22年補修の3千分の1地形図では湿地として描かれ、東縁の現在の暗渠の場所に沿って川の流れが描かれている。遡って行くと、先のテニスコートの直下で行き止まりとなっていた。左側の斜面の上は東大の白金寮だ。
引き返し、北へと戻って行く。周囲から隔絶された秘境の趣がある。
細く深かった谷はやがて、朝日中学校の校庭のわきで、古川沿いの低地に口を開ける。校庭の東側を、曲がりくねりながら暗渠が通っている。朝日中学校の敷地はもともとは、日本初の生命保険会社である明治生命の創始者、阿部泰蔵の屋敷地だった。学校のホームページによると、谷沿いの校庭は屋敷の庭となっていて生い茂る庭木の間に石を配した庭園で、その中に川が流れていたとか。この川が今暗渠となっている流れのことなのだろうか。現在、名残のケヤキの大木が校庭の真ん中に生えている。
上流方向を振り返る。大谷石の擁壁となっている左側の丘の上は最高裁判所三光町宿舎。
三光通りを越えると、タイル状のブロックで舗装された暗渠が残っていて、植木が並び家々の勝手口が面した、生活感のある路地裏となっている。この区間はかなり早い時期(遅くとも戦前)に暗渠化されたようだが、川跡の雰囲気が色濃い。暗渠につきものの猫もうろうろしていた。
途中路地が直角に曲がる地点には、錆びかかった立派なマンホールが、存在感を放っていた。
暗渠は先の路地を抜けると直角に曲がって白金3丁目と5丁目の境の「五の橋通り商店街」道路下となり、まっすぐ進んで五之橋のたもとで古川に合流している。橋の下に口を開けた排水口はかつての合流口だろう。一見普通の土管に見えるが、その縁取りは石の組み合わせでできているようで、古さを感じさせる。この付近の古川の護岸は戦前につくられたものがそのまま残っている。
五之橋の上流側すぐ隣には「青山橋」が残っている。かつて川沿いの個人住宅用に架けられた橋のひとつだ。今では橋の北側には空間はあるものの入ることはできず、南側にいたっては道路も何もない、トマソン状態。ここの上流部では改修工事が始まっており、もしかするとこの橋の余命も長くないかもしれない。
白金三光町支流は何かの話題にのぼることもなくほとんど知られていない暗渠だが、実際に辿ってみてその空間に触れてみたり、そこにまつわる歴史を紐解いていくと、なかなかに味わい深い暗渠のように思える。
ただ、「医科学研究所と旧国立公衆衛生院に挟まれ」た所には訪問しそこねています。ここは自由に入れるんですか?
あと、聖心より南側は、出口のないいわゆる「一級スリバチ」ですよね。ここから出ようと思ったら、周りが全部上り坂だった記憶があります。
白金も「白金台」と「白金」では全然雰囲気が異なりますね。
「医科学研究所と旧国立公衆衛生院に挟まれ」た所は医科研附属病院の敷地なので、一応自由に入れます。厳密にいえば、病院に用のある人だけが入れるのでしょうけど、同じ敷地内に近代医科学記念館があったりしますし、近所の人も散歩しているようです。
記事をご紹介いただきどうもありがとうございます。
前半の医科学研究所の辺り、独特の趣がありますね。
斜面に並んだ鳥居の風景が何とも印象的です。
この辺りまでは辿れなかったので、地形図とともに大変興味深く拝見しました。
住宅街の谷間も凄いですね。この辺りの高低差を改めて感じさせてくれます。
そして敷石の路地空間はやはりいいですね。
ひっそりとしたタイムスリップ感覚、蘇ってきます。
また改めて、歩いてみたくなりました。
ラストの青山橋も堪りません。これも是非見に行きたいです。
コメントありがとうございます。旧国立公衆衛生院は、医科学研究所の敷地内から見ても壮観なのですが、外側の住宅地から見ると風景との対比で更に趣があります。青山橋、もっと近づけるといいんですけどね。
「ご用の方以外は構内に入ることを禁じます」とか書いてありましたが、確かに地元の人はへっちゃらで入っています。
「犬を連れての入構はご遠慮下さい」とあるのに平気で犬を連れているおばさんとか、「場内禁煙」と書いてあるのにベンチに座って喫煙している外人とか、やり放題でしたねw
構内に道を通すために盛り土がしてあり(たぶん)、谷筋はもっと西のプラチナ通りの手前まで続いているのですね。
建物も壮観でしたし、おかげさまで楽しい時を過ごせました。
あと、たまたま近くの三田用水の橋跡(白金台3丁目)を通ったのですが、橋に落書き(?)と思える書き込みがしてありました!
印刷書体で白抜き文字になるように「南」「里」「橋」と黒いスプレーがしてあります。
役所の人がやったのかとも思いましたが、橋そのものにスプレー書きなんてありえないでしょうし、落書きと考えた方がよいかと思いましたが、それにしては手が込んでいますね。
これに関して、何かご存じですか?
いたずらだとしたら、貴重な遺構なので残念です。
あと、実際この橋の名前は「南里橋」というのでしょうか。
最近は世の中ギスギスしてきて「立入禁止」な施設・場所が多いですが、大学関連、特に国立大学の敷地なんて、本来は比較的出入りが自由だったはずなんです。ここもそのうち厳しくなっていくのかもしれませんが、地元の人が自由に通り抜けする環境はある意味健全に思えます。
橋の名前は「今里橋」、1930年竣工の貴重な遺構です。スプレーの件は知りませんでした。何なんでしょうね?
水の流れの跡を辿ると東京の隠れた地形が現れ、大変面白いですよね。google earthの地形図で説明されると非常にわかりやすいです。このサイトは大変詳しくお調べになっており、以前よりいつも参考にさせていただいています。
書込みありがとうございます。白金の辺りは特に、川跡を把握すると地理感覚がガラッと変わって面白いです。ところで「東京福袋」、オープンしたてのころ、よく覗かせていただいてました。懐かしいです。
暗渠で検索して初めてこちらのブログにうかがいました。
最近ついにこの橋もなくなってしまいました…。
五の橋周辺の雰囲気が好きだったので、寂しい限りです。
とはいえ、ほとんどの古い場所がなくなる寸前ですが。
はじめまして。麻布や白金界隈に残っていた風景もだんだんなくなりつつあるようですね。青山橋もなくなってしまいましたね。「みちくさ学会」というサイトの記事に取り上げましたので、よろしければご覧下さい。
http://michikusa-ac.jp/archives/3747260.html
白金台三光町支流が暗渠化された理由は生活用水が流された以外にあるのでしょうか?
例えば、水源が旧国立公衆衛生院付近で、水源の池で実験用動物を扱っていたためその実験の薬品等が川に流され周辺に悪影響を及ぼして暗渠化されたのでしょうか。
暗渠化された理由をご存知でしたら教えていただきたいです。宜しくお願いいたします。
初めまして、暗渠化の理由は他の多くの川と同様、下水道への転用だったようです。薬品云々は聞いたことはありません。