人気ブログランキング | 話題のタグを見る

東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流

貫井川を辿るシリーズの最後は、貫井弁財天のところで北東に分かれる分流と、その分流に注ぐ支流の川跡をとりあげる。下は今回のエリアを拡大した段彩図(段彩図は数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。貫井川最下流部流域は石神井川の低地に沿った水田地帯となっていて、分流と本流の間にも何本か水路があったようだ(図水色のライン)。貫井川の分流は水田地帯だった低地の外縁部に沿うように流れていた。そしてそこに合流する、細く、はっきりとした谷戸を流れる支流があった。この谷戸の東側の台地に名付けられていた小字名「向山ヶ谷戸(こやまがやと)」から、この支流を向山ヶ谷戸支流(仮称)と呼んでおこう。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23261563.jpg


ではまずは貫井川分流から。
==============

前回の記事でもとりあげた貫井弁財天の敷地。赤い鳥居は後から移設されてきた御嶽神社の祠で、その右側に見える塗装のない鳥居が貫井弁財天だ。写真手前から左奥に横切る道路沿いが貫井川本流で、車止めを通って右へのびる道が分流だ。路上には暗渠サインの水色ペイントがある。この地点にはかつて「聖橋」が架かっていたという。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23262062.jpg

分流は弁財天の東側を抜け北東へ向かう。この先は目白通りの旧道につきあたって行き止まりとなる。道路とは2mほどの段差があり、かつては「貫東橋」が架かっていたという。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23262553.jpg

「貫東橋」跡の北側にまわると、再び川跡の道が現れる。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23263087.jpg

しばらくは、蛇行以外は川跡の痕跡のない道が続くが、石神井川に近い地点にはこのような暗渠区間も残っている。現在でも水路敷扱いのこのあたりにはかつて水車があったという。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23263684.jpg

川跡はカーブして東へと向きを変え、台地の縁を進んでいく。右岸のコンクリート壁の上は畑となっている。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23264929.jpg

半円状にカーブを描く区間の出口。かすれているが水路敷のペイントが残る。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23265740.jpg

この先は石神井川に並行した直線の暗渠が遊歩道となっている。私が今回使った1万分の1地形図(1989年刊)では、先のカーブからこの直線区間にかけてはまだ開渠として描かれている。この直線区間は大正末期の耕地整理の際に石神井川の改修とあわせつくられた水路と思われる。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_2327331.jpg

唐突に現れたパンダ2頭。手前の鳥は何ものだろう?
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_2327847.jpg

川は200メートルほど続く直線区間の後、直角に曲がり石神井川に注いでいた。かつての合流口のあたりには痕跡は何もないが、やや下流の橋の下に雨水管が口を開けている。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23271237.jpg

=========
「貫井川向山ヶ谷戸支流」

さて、続いては「向山ヶ谷戸支流」をとりあげよう。猫またぎさんが以前記事にされていた暗渠だ。全長700mほど。こちらでは下流から上流へと遡ってみる。緑色の車止めから、遊歩道となった暗渠が始まる。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23271676.jpg

一応遊歩道風にはなっているが、路上は苔むし、道端には雑草が生えていてなかなかいい感じ。秋の日はつるべ落としで、写真は夕刻5時頃のものだが既に夜のようだ。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23272111.jpg

緑も多く、谷底独特の湿度が夕闇で増感される。猫が暗渠を横切っていく。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23272425.jpg

横切った猫は別の路地を覗きこんでいた。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_2327285.jpg

谷を横切る道は両側とも坂や階段になっていた。その一つ。暗渠は手前を右から左に向っている。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23273318.jpg

更に上流へと進んでいく。右岸(左側)はコンクリート擁壁だが、左岸(右側)にはちょっとした土手も残っていた。上流部は谷が細く谷底の平地がわずかだったためか、水田に利用されることもなく、木々が茂る森となっていたようだ。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23273867.jpg

擁壁から突き出した排水管。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23284929.jpg

暗渠は目白通りに突き当たり階段となって終る。谷戸自体もここが谷頭となっていて、古地図にはこのあたりに小さな池が描かれているものもある。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23285976.jpg

階段の脇の擁壁からは水抜きの穴から水が滲み出していた。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23291035.jpg

階段を登って目白通りから暗渠を振り返る。階段の反対側、目白通りの南側には特に目立った谷地形も川の痕跡もないが、戦前「練馬製氷所」があったようだ。地下水をくみ上げていたのだろうか。
貫井川の暗渠(川跡)を辿る(3)下流部分流と向山ヶ谷戸支流_c0163001_23292075.jpg


以上で貫井川のシリーズは終わり。練馬区内は他にも豊島台を刻んで石神井川に注ぐ谷筋の暗渠/川跡が沢山あり、どれもおもしろそうだ。大部分は猫またぎさんが記事にされているが、こちらでも折をみてまたとりあげたい。
Commented by 猫またぎ at 2010-12-14 20:15 x
向山ヶ谷戸支流は、また私とは方向が逆でしたね。
しかも夜!
私のカメラでは完全に撮影を諦めてますね。

今回は橋の名前をいくつかあげられているのが私にはできない芸当ですね。
橋があった頃を想像するのも楽しい。

あと、いつもtokyoriverさんの撮られる猫は印象的です。
なかなか真似できません。
Commented by tokyoriver at 2010-12-15 00:15
猫またぎさん。
橋の名前はたまたま古い地図に記されていて判明しました。猫の写真、楽しんで頂けたようで嬉しいです。カメラを向けて近寄ると警戒されてしまうので、苦肉の策で、猫が点景となるような感じに撮っているといった面もあります。なかなか難しいですよね。
Commented by 島田 徳三 at 2015-01-08 23:21 x
私の家族は練馬製氷をやっていました.工場はまさに地図の示す部分にありました.練馬製氷は戦後,昭和44年くらいに閉じたと記憶しています.父が工場長で景気が良いころは従業員の人たちも15人くらい居たかと思います.製氷した氷を大きな倉庫に蓄えており, そこから大きなトラックで練馬区,豊島区の氷屋さんに氷を運んでいたり,漁業会社の倉庫にも沢山氷を届けていました.小学生のころの私は,学校の友人たちと倉庫の中に入り, 5分,10分で凍えてくるのですが,「冒険」を楽しんだものです.ご推察の通り, 工場内には,地下水をくみ上げるポンプがあり, 氷にもしたし,常にぐるぐる回っている大きな製氷機のモーターの冷却水にもしていました.その冷却水は,工場から工場脇のどぶ(30-40cm幅)に流し出されて,どぶの上流は保土塚さんの田んぼ脇のカエルが居るようなゆっくりとした流れで,どぶの下流はかなりきれいな水がスピードで目白通り(当時は13間通りと言いました)の脇の暗渠に流れていったいました.この工場からの流れ出し口には洗濯板を持ってきて洗濯する人も居ましたし, 時には若い女性で裸で水浴びをする(例外的な)人も居ました.この暗渠の先は
まだ13間通りが旧形でその脇ではキャッチボールができたりしたころは, それを渡って大泉の方角に10mくらい進んだ位置に大きなマンホールがあってそのしたを流れていましたし,地図では製氷所から子津橋に向けて1/10くらい進んだ点と水車を結ぶ線上にも私の記憶では幅1mくらいの流れがあった記憶があります.私は66才です. この記憶は20才でこの向山の土地を離れるまでの間のことですが,とりわけ,トンボを川で捕ったり,豊島園までの林で蝉や玉虫を採取したりした10才くらいのものが鮮明です.つまり56年前くらいの練馬製氷の住民(子供)の記憶です.ふと,全く偶然に, 練馬製氷でググってBlogにたどり着きました.情感にあふれるすばらしい写真を残しておられますね.水の流れを読むのはすばらしい技術ですね.
Commented by tokyoriver at 2015-01-09 23:25
島田様。
貴重なコメント、ありがとうございます。関係者の方のお話を直接伺えて、大変嬉しく思います。練馬製氷は1960年代末まで営業されていたのですね。そして、脇のドブ、がこの記事で取り上げた暗渠の最上流になるのかと思います。そのほか、かつての現地の風景の貴重なご証言、とても興味深いです。いただいたお話をてがかりに、また調査してみたいと思います。
Commented by ごんべ at 2021-08-24 23:51 x
幼時にこの近所にいたもので
風景をなつかしく拝見いたしました。

製氷所の件ですが、現在は付近に冷蔵倉庫が
営業しているみたいですね。
なにか関係があるのでしょうか?

また立ち寄る機会でもありましたら
ちょっと調べてみたいものです。
by tokyoriver | 2010-12-13 23:52 | 石神井川とその支流 | Comments(5)