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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

北沢川源流域/北沢分水を辿る(1)はじめに。謎めいた分水口。

◆北沢川

北沢川は、世田谷区上北沢2丁目、現在、都立松沢病院の敷地となっている一帯に滲み出していた湧水を水源とし、世田谷区内北東部を東へと流れていた全長6kmほどの川だ。川は北側から合流する何本もの支流の水を集め、世田谷区池尻で烏山川と合流し、目黒川となっていた。1960年代から70年代にかけ、暗渠化と下水幹線への転用が進み、現在はほぼ全区間が緑道となっていて、下流部には再生水を使ったせせらぎが続いている。(ただし、扱いとしては今でも「二級河川」のままだという)。また支流についてもほとんどの区間が暗渠化されている。
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◆北沢分水

川の流域は主に水田として利用されていたが、谷筋が浅いことからも分かるように水量は少なかった。そのために玉川上水から北沢川に水を引き入れるために分水されたのが、北沢分水だ。玉川上水が開通したのは1654(承応3)年だが、北沢分水はそのわずか4年後の1658(万治元)年に「上北沢分水」として供用を開始した。まずは飲料水として、そして玉川上水拡張後の1670年には農業用水に転用され、後には北沢川自体とあわせて「北沢用水」と呼ばれるようになった。段彩図の青いラインが北沢川水系、オレンジ色のラインが、それに接続された最終的な北沢分水の流路となる。(段彩図は、数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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◆分水口の変遷

分水への給水が途絶えたのはいつの頃か定かではないが、現在、杉並区久我山1丁目の玉川上水岩崎橋の近くに、北沢分水の分水口遺構が残っている(上の段彩図で3代目分水口と記してある地点)。写真奥が堰跡で、せき止めて水位を上げ、手前の取水口から地下に埋められた伏樋に水を引き入れていた。少し西側には、烏山分水の分水口も残っている。
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実は分水口がこの場所になったのは1871(明治4)年のことで、ここを含めて3回、分水口の場所は変えられている。北沢分水はここで分水された後1.5kmほど、玉川上水の南側に並行して流れたのち、上高井戸2丁目(※下高井戸と誤記していたため、訂正しました)で南下していたのだが、2番目の分水口は1788(天明8)年から1871(明治4)年までの間、その南下する地点、かつての下高井戸村字第六天前にあった(上の段彩図で2代目分水口と記してある地点)。玉川上水通船のための水路拡張工事の結果、現在の場所に移ったという(ちなみにこのように玉川上水に並行して水路を延ばし、分水口を付け替える手法は他の分水でも行われている)。では1788(天明8)年より前、分水が開通した当初の分水口はどこだったのだろうか。

◆最初の分水口と上北澤分水

ざっと資料をあたった限りでは、分水口の変遷については、「東京市史稿 上水篇(水道篇)第1」(東京市役所編 1919)の記事がもっとも詳しかった。北沢分水はそこでは下北澤分水として紹介され、「新編武蔵風土記稿」「郡村誌(荏原郡村誌か)」「武蔵通志」より該当部分が抜粋転載されている。最も詳しい「郡村誌」によれば、当初の分水口は「上北澤地内字牛窪」 方1尺4寸、長さ9尺の樋口を伏せ、とある。「新修世田谷区史 上巻」(世田谷区 1962)及び「世田谷の河川と用水」(世田谷区教育委員会 1977)にも同様に記されているが、いずれもこの「東京市史稿」を出典としたものだろう。

ということで「上北澤地内字牛窪」が当初の分水口となるのだが、ここで問題がある。まず、玉川上水は上北澤村内を通っていないのだ。そして、「上北澤地内字牛窪ヘ(略)樋口ヲ伏セ、玉川上水ヲ分水ス」を「牛窪へ向って」と解釈すると、では分水口自体のあった場所はどこなのか、ということと、牛窪とはどこなのか、という問題が生じる。分水口自体もさることながら、この「牛窪」がどこだったのかが全く分からない。近隣で牛窪といえば、京王線笹塚駅南側、神田川笹塚支流(和泉川)の枝谷があり玉川上水が大きく迂回している地点くらいしかみあたらないが、こちらは幡ヶ谷村だし、ずいぶん離れていて全く関係ない。

◆最初の分水口はどこか?

「世田谷の河川と用水」では、当初の分水地点について、京王線上北沢駅の北東に1カ所、北西に1カ所、そして八幡山駅の北方に1カ所の計3カ所の候補を挙げている。上北沢駅の北西には確かに痕跡らしきものが残っているし、駅の南東に残る北沢川の支流を北へ延長してみると、駅北東の玉川上水にぶつかる(下の段彩図で「三田説A〜C」)。
また「甲州道中高井戸宿(文化財シリーズ26)」(杉並区教育委員会 1981)に掲載されている「下高井戸宿復元鳥瞰図(江戸後期)」には玉川上水と北沢川流域の間を東西に通る甲州街道に、3カ所の「用水抜石橋」が描かれている(下の段彩図で「用水抜石橋」のポイント)。
一方「杉並の川と橋」(杉並区立郷土博物館 2009)に掲載されている「五街道分間延絵図」からの高井戸宿の概略図にも、甲州街道を横切る水路を渡る「用水抜石橋」や「悪水抜石橋」がいくつも描かれている。こちらでは「甲州道中高井戸宿」の「用水抜石橋」に対応すると思われる橋はいずれも「悪水抜石橋」となっていて(下の段彩図で「悪水抜石橋」のポイント)、現在の北沢分水流路(暗渠)に対応する地点が「字山谷石橋」となっている。
これらの橋の位置からは、「世田谷の河川と用水」で挙げている上北沢駅の北西に対応するであろう用水路、そして上北沢駅北東の地点からやや東にずれた用水路、そして桜上水駅の北東の用水路が甲州街道を横切っていたことがわかる。そして、それらに対応するように、甲州街道の南側には北沢川の支流が何本か、その痕跡を残している。このなかのひとつが最初の分水路の名残なのではないか。
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◆謎めいた分水路を探して

北沢川/北沢分水は比較的著名な存在でありながら、この最初の分水口については資料・文献もあまりなく、話題にする人も少なく、謎めいている。現世田谷区のエリア内の利水のための分水でありながら、分水口が杉並区の南端に位置していることも、資料や研究が手薄になっている一因かもしれない。
この北沢分水最初の分水口探索については、 「世田谷の川探検隊」の庵魚堂さんのブログ 「庵魚堂日乗」でずいぶん前に断続的に探索の成果が発表されていたが、今のところまとまった形での発表には至っていないようだ。

今後数回にわたって、北沢川源流域/北沢分水をとりあげていこうと思うが、この最初の分水口〜分水路との関係を念頭に置きながら、まずは桜上水駅付近の、かつて「入谷」と呼ばれていた谷筋を流れる、北沢川の支流「桜上水支流(仮称)」を辿ってみようと思う。下の段彩図中央やや右、二股に分かれている青いラインがそれにあたる。次回は東側の流れについてとりあげてみる。
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by tokyoriver | 2011-03-10 12:32 | 北沢川とその支流 | Comments(0)