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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

北沢川源流域/北沢分水を辿る(6)上北沢駅付近の痕跡

記事の前に御礼を。「みちくさ学会の発表会」にご来場いただいた皆様、ならびにustreamでご視聴いただいた皆様、ありがとうございました。おかげさまで客席は満員(200人弱くらいか)、ustream視聴者も400人に達していたとのことです。私の発表につきましては、丁寧に説明すると30分以上はかかりそうなスライドを10分で説明してしまったので、判り難いところも多々あったかと思いますし、もう少し個々の写真の説明もできればよかったなと思いました。もし機会があれば、ゆっくりと説明してみたいものです。

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連休を挟みだいぶ間があいてしまったが、北沢分水の最初のルートを探るシリーズ、最後に京王線上北沢駅を挟んで残る川跡/暗渠を辿ってみよう。「北沢分水の最初の分水口とルート」を巡る謎については、こちらの記事に再度お目通しいただけたらと思う。

「北沢川源流域/北沢分水を辿る(1)はじめに。謎めいた分水口。」

今回とりあげた流れは下の段彩図で、黄色い○で囲んだあたり(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。2回目から5回目にかけてとりあげたのは、その右側、桜上水駅付近の流れだ。なお、前半の写真は携帯電話のカメラでの撮影なので、余り綺麗に撮れていないがご容赦を。
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今回辿る川跡は、京王線上北沢駅付近に発し、桜上水5丁目の都営上北沢アパートの一角で北沢川の北側の流れに合流している。もともと浅い谷筋となっていて、仮にこれが北沢分水の最初のルートだった場合、玉川上水から水路を引いて谷頭の源流に接続したようなかたちであったと思われる。合流地点は桜上水公園になっていて、雨水を循環させた池とせせらぎがつくられている。ここから上流方向へ遡っていくことにしよう。川跡はアスファルトに覆われた普通の歩道となっているが、曲がり具合がかつてここが川であったことを示している。
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曲がりながら続いている。この辺りは浅い谷筋となっていて、自然河川だったことを伺わせる。
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歩道が車道から分かれていく川跡/暗渠ならではの風景。
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再び車道に沿ってジグザグに。歩道の上の花壇が暗渠の証。
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車道から離れて路地に。護岸の痕跡らしきコンクリートが残っていた。ここの区間は手許にある1984年の1万分の1地形図では開渠として描かれている。
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桜上水駅の南側で暗渠らしい路地は終っており、地形もほぼ平坦になる。1970年代の住宅地図では水路がここで西(写真右)に曲がって十数mほど続いているように描かれているものもある。さて、この先にも水路は続いていたのだろうか。駅の反対側を探索してみることにする。
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駅の北側に回り込んでみると、銭湯「北沢湯」があった。
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北沢湯の向いの路地に沿って、北へ続くコンクリート蓋の水路が残っていた。
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数十mほどで蓋暗渠は途切れてしまい、再び水路の痕跡は無くなる。北側を東西に通る甲州街道まで出てみる。一帯はかつての下高井戸宿で、現在甲州街道と首都高速4号線が分かれている辺りには、かつて日本橋から四里目(16km)の一里塚があった。そこから少し西に進むと、東京中央卸売市場・淀橋市場松原分場の跡地だ。1939年より営業を続けていた青果市場だったが、2008年に閉鎖。敷地は立ち入り禁止となっているが、建物はまだ残っている。
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この青果市場跡地の敷地の東側に、柵で閉ざされ、歩道内なのにガードレールが設置されたところがある。
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中をのぞくと、塀と柵に挟まれた細長い空間。奥は、玉川上水の暗渠上を通る首都高4号線が見え、そして地面には細いもののコンクリートの蓋をされた水路の遺構があった。
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北側に回り込んでみたが、こちらも塀で封鎖されていた。振り返ればもうそこは首都高速=玉川上水の暗渠だ。つまり、この水路跡は、玉川上水からの分水だった可能性がある。
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ここで、周囲の地図を見てみよう。赤い星印が、水路の遺構の北端で、そのすぐ北を通る紫色のラインが首都高速4号線かつ玉川上水の暗渠である。

地図に記された破線は世田谷区と杉並区の境界線なのだが、これはかつての上北沢村と高井戸村の境界線をそのまま踏襲したものだという。そして、見れば判る通り、この地点だけ、世田谷区=上北沢村のエリアが玉川上水の暗渠に接している。実はこの地点は、上北沢村が、唯一玉川上水に接していた場所なのだ。

1回目の記事に記した通り、北沢分水の取水口は当初「上北沢地内字牛窪ヘ、方一尺四寸、長九尺ノ樋口ヲ伏セ、玉川上水ヲ分水ス」(郡村誌)と、上北沢村のエリア内、もしくはそのすぐそばで玉川上水から分水されていたように記されている。ところが玉川上水は上北沢村内を通ってはいないので、この記述の解釈が非常に難しかった。
もしこの地点が最初の取水口だったらどうだろう。水路を管理するための上水沿いの敷地は水路と同じく高井戸村であっただろう。そしてその幅が9尺(約3m)程度だったとすると、ちょうど記録と辻褄があう。つまり、9尺の伏せ樋で上水の管理敷地を潜り、上北沢村地内から開渠水路となっていたようなイメージだ。あくまで推測に過ぎないのだが、いずれにしても、前回までとりあげた桜上水支流ルートではややすっきりとしない、上北沢地内に水を引いた、という記録が、こちらのルートにあてはめるとぴったりと来る。
また、2つ前の写真(先の閉ざされた空間の南端)の地点は、甲州街道のいくつかある「用水抜石橋」のうちのひとつがあった場所と一致していると思われ、この水路が甲州街道の北側から南側に抜けていたことははっきりしている。
ただし、一帯が牛窪と呼べるような窪地とはなっていないということと、上北沢駅南側までのルートが判らない、という点で疑問は残る。ちなみに「世田谷の河川と用水」では、この近辺を最初のルートとして推定している。

果たして1658(万治元)年に開削された北沢分水の最初のルートは、どれだったのだろうか。あるいは今回候補としてたどった3つのルート以外に、全く別のルートがあったのだろうか。

北沢川上流部や分水口が移設された1788年以降の北沢分水についても引き続き記事にしていくつもりだが、しばらく続いたのでここでひとまず区切る事としたい。

北沢川水系全体図
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Commented by lotus62 at 2015-01-12 18:23 x
昔の記事にすみません(笑)。今日杉並の区界を辿ってきて、その復習で読ませていただいています。
いやーあらためて面白い記事です‼
市場跡はもうフェンスに覆われ、中を覗き込んでも跡形もありませんでした。
残念ながら敷地東にあるというガードレールは未確認;;;
それと、北沢湯横のコインランドリーももうこの味のある看板はなくなりおそらく建て替えられていましたね・・・。
Commented by tokyoriver at 2015-01-14 22:58
lotus62さま
コメントありがとうございます。この分水口推定位置のカギがまさに区界にあるということを、自分も久々に読んで思い出しました(笑)。北沢湯のコインランドリー、なくなってしまったんですね。。。脇の蓋暗渠は健在なのか、気がかりです。
Commented by lotus62 at 2015-02-08 21:14 x
先日はどうもでしたw さてもう一度こちらにコメント。ガードレールの先の水路跡、残っていることを確認してきました。この敷地、給水所として生まれ変わる工事が3月に着工するそうです。
Commented by tokyoriver at 2015-02-11 10:15
lotus62さま
情報ありがとうございました。給水所ですか。水路跡、この先も生き延びるといいんですが、敷地側のコンクリート塀は壊されそうですね。
Commented by かずぱぱ at 2016-04-04 00:44 x
昨日、子供の社会科の課題で、このあたりを探索した者です。
面白い記事を有難うございました。
昨年1月のコメントで心配されていた「脇の蓋暗渠」ですが、まだちゃんとありましたよ。
ご報告まで。
Commented by tokyoriver at 2016-04-06 12:46
かずぱぱさま
コメントありがとうございます。蓋暗渠、健在だったんですね。もしかすると貴重な歴史資産かもしれないので、よかったです。
by tokyoriver | 2011-05-11 23:40 | 北沢川とその支流 | Comments(6)