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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

山手線中里用水ガードと、脇に残る謎の欄干(谷田川暗渠)

今回は、小ネタを。以前別のところでも記した話題ではあるけど、記録の意味合いでこちらにも記事として残しておくことにする。JR山手線に乗り、田端駅から駒込駅に向かって行くと、切り通しを抜けた後に土手となって駒込駅に入り、駅の途中からは再び切り通しとなって巣鴨方面に続いていることがわかるだろう。ここで土手になっていたところがかつて谷田川が流れていた谷筋だ。駒込駅東口から、田端方面へ100mほど線路に沿って進むと、古そうなガードがある。
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線路の下を通っているのは谷田川通り。ここにかつて谷田川が流れていた。谷田川については以前この記事で「谷田橋」の遺構について取り上げたことがある。
さて、ガードの左側の土手下に注目して欲しい。何か欄干のようなものが見えないだろうか。
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近寄ってみるとこの通り。土手下のコンクリートの擁壁、というか土留めに埋め込まれて、コンクリート製の橋の欄干が残っている。両側には親柱もある。うまく嵌めこまれている上に手前に電柱や標識、放置自転車などもあってなかなか気がつきにくい場所だ。実はこの欄干の前は、子供の頃からそれこそ何百回も通っていたのだが、気がついたのはほんの数年前のことだ。
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電柱を避けて斜めから撮ってみる。欄干に開いた穴はシンプルだが、悪くない。大正後期の造作だろうか。親柱の、本来橋名が書かれているであろう場所は埋め込まれていて見ることができない。反対側の親柱も確認できなかった。長さはおよそ2mほどだろうか。ガードや現在の谷田川通りの幅に比べると短いが、暗渠化前は川沿いに道があって、ガード下も川沿いに通り抜けていたようだから、実際の川幅はこんなものだったのだろう。
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それにしても、なぜこんなところに欄干が残っているのだろう。近くに特に説明板があるわけでもなく、意図的に保存されているような雰囲気ではない。谷田川の暗渠化は大正時代、下流部より始まった。この近辺の暗渠化は1932年に始まり、1940年には完成したという。仮説としては、おそらくこの橋は線路沿いの道が谷田川を渡るところに関東大震災後に架けられ、暗渠化の際に、まだ新しいことから土留めとして転用され、この場所に埋め込まれた、といった変遷が考えられるが、ざっと調べてみた限りでは出自は明らかとならなかった。一体どういった由来があるのか、もしご存知の方がいたらぜひご教示願いたい。

さて、今度はガードの方に着目してみよう。この区間の山手線が開通したのは1903(明治36)年。その当時、ここには谷田川が流れていて、このガードは谷田川の谷を横切るための土手に掛けられた、川を渡る橋だった。
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その証拠が、ガードの名称に残っている。橋台に「中里用水ガード」の字が記された標識が付けられている。谷田川は最上流部では谷戸川と呼ばれ、以下、谷戸川、藍染川などと、地域によりその呼び名は異なっているが、中里用水という呼び名は聞いたことがない。中里はこの地の地名であることから「中里の用水路」といった意味合いで便宜的につけられた名称なのかもしれない。山手線の名も「山手電車」と記されているし、案外いい加減なものなのか。
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そして、湘南新宿ライン(貨物線)の線路側の田端寄りの橋台には赤煉瓦が残っている。開業当時の山手線は、現在の湘南新宿ラインの線路の場所を走っており、その後の1925(大正14)年の客貨分離により現在の線路の側に移ったという。とすると、この赤煉瓦は開業当初からのものであり、かつては谷田川の水面にその色を映していた可能性が高い。
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谷田川は戦前に暗渠化されたことから、その痕跡はほとんど見当たらないが、こうしてところどころに川であった証が残っているのを見ると、ちょっとは嬉しくなる。
Commented by 谷戸ラブ at 2011-08-28 08:08 x
これは素敵な遺構ですね。第二、第三の人生をここで過ごしていたんですか。。中里用水と記されているのも新鮮な印象を受けます(電柱とかにある、昔の小エリア名のような名付け?)
ひっそり、しっかり佇む欄干も今このタイミングでtokyoriverさんの目に留まって安堵しているのではないでしょうか。
Commented by Holive at 2011-08-28 16:57 x
tokyoriverさんがうん百回通ってようやく気づいたのであれば、当然30回そこそこの私が気づけるワケもなく。
上野・秋葉原方面から自転車で帰ってくるときは、毎回あのガードを通るので、そのたび視界の中に入っていたハズなんだケドなぁ‥‥「中里用水」ってのも、聞いたことないですし。今度通るときは、自転車ちょっと止めて見ようかしら。。。
Commented by tokyoriver at 2011-08-29 09:17
谷戸ラブさん。
谷田川の流れはとても用水と呼べるような水量ではなかったと思うんですけどね。水源近くを通る千川上水から非公式に水を引き入れてたりすると面白いんですが。
Commented by tokyoriver at 2011-08-29 09:19
Holiveさん。
ここはほんと、盲点でした。久しぶりに通ったときにようやく気が付きました。見慣れているとかえって気づきにくいのかもしれません。
Commented by lotus62 at 2011-08-29 13:37 x
うーん、こりゃおもしろいケースですねー!
擬態みたいにして完全に溶け込んでるけど、
よくみれば…
それに加えて「中里用水」ですからね…ダブルで見ごたえのある名所ですね!
Commented by tokyoriver at 2011-08-30 08:47
lotus62さん。
まさに「擬態」です。すぐ脇が暗渠だということを知らなければ、これが欄干だとは思いもつかないと思います(私は暗渠だということを知っていても長いこと気が付きませんでしたが(汗))。
Commented by 庵魚堂 at 2011-08-30 13:36 x
とても面白いですね、これ。
たいした根拠はありませんが、この欄干は大正前半期(少なくとも関東大震災前)のものではないかと思います。
こうした中小水路に架けられる橋の欄干は、昭和前期にはほぼ膝の高さ程度にまで小型化しますが、そうした実用性重視の流れは震災を境にしているのではないかと。
この欄干はわざわざ親柱を付した、いわば“立派過ぎる”造りになっていますので、震災前のものではと考えました。
また(そう遠距離ではないでしょうが)土留めのために別の場所から持ってきた、という可能性もありますね。
Commented by tokyoriver at 2011-08-30 22:11
庵魚堂さん。
なるほど、実用性重視からくる意匠といった観点もありますね。確かに、谷田川の規模からすると、立派すぎるかもしれません。果たして如何なる出自なのか・・・
by tokyoriver | 2011-08-26 23:46 | その他のエリア | Comments(8)