深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1
2011年 12月 04日
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まずは関連する水路の全体を地図で見てみよう。深大寺用水の玉川上水からの取水口は、流末の京王線つつじヶ丘駅付近から遡ること約30km、昭島市つつじヶ丘(!)の松中橋のたもとだ。といってもここから分水されているのは「砂川分水」(地図上部を玉川上水に平行して横切るオレンジ色のライン)だ(※この分水口については、柴崎分水の記事中に写真を掲載)。砂川分水は五日市街道に沿って、一旦玉川上水から離れた後に再び上水に接近して並行し、小金井分水(細いオレンジ色ライン)を分けた後、梶野新田分水(水色のライン)につながり南下、そしてその末端に深大寺用水がつながっている(青いライン)。(※なお、小金井分水と梶野新田分水の間を縫うように折れ曲がって通っている青緑のラインは仙川の上流部で、悪水路として機能していたと思われる。)
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_1616499.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_1616499.jpg)
「砂川分水」は1657(明暦3)年と、玉川上水開通のわずか3年後に開削されたかなり古い分水だ。また、「小金井分水」は元禄年間(1688〜1704年)、「梶野新田(呑用水)分水」も1734(享保19)年頃と江戸時代中期以前に開通している。これらはいずれも開通当時は玉川上水から直接取水されていたが、1870年(明治3年)、玉川上水通船事業に伴う分水口の統合が施行された際に、玉川上水右岸(南側)側は砂川分水が上水沿いに延長されて、各分水の分水口はそこに接続され、その分だけ砂川分水の取水口での取水量が増やされた。
「深大寺用水」の開削はその翌年の1871年。砂川分水の取水口は、更に深大寺用水に流す水の分も広げられ、深大寺用水に至るまでの水路も拡幅された。そんな訳で、砂川分水の中下流部まで含めて深大寺用水と呼ばれる場合(国土地理院の地図などで表記)や逆に下流部まで砂川分水と呼ばれる場合もあるようだが、ここではひとまず、新規に開削された"狭義の意味"での深大寺用水、つまり、梶野新田分水の末端より下流側をたどっていくことにする。
なお、砂川分水の区間も含めた広義の深大寺用水については、本サイトからもリンクを貼らせていただいてるimakenpressさんが丹念な調査結果に基づいた記事を書かれている。推測の部分もほぼ同意できるし、とても読みやすくまとめられていておすすめだ。
下の地図は"狭義の意味"での深大寺用水の流れるエリアをクローズアップしたもの。図の左上が梶野新田分水の流末で、それにつながる深大寺用水はすぐに西堀と東堀の二手に分かれる。中央に向かう青ラインが深大寺用水東堀、いったん神代植物公園方面に南下した後東進しているのが西堀だ。東堀上流部では入間川の水源を挟んで二手に分かれている。紫色のラインと濃い緑のラインは自然河川。深大寺用水東堀と付かず離れずの位置に流れるのが入間川である。黄緑色のラインは「仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)」に関連する水路。一見、品川用水から分水されているようにみえるが、実は仙川用水は品川用水よりも古く、分岐点まではもともと仙川用水だったといわれている。用水は途中入間川の流れを利用した後、再度そこから分かれて野川に注いでいる。深大寺用水東堀の下流部は、この仙川用水流末をそのまま利用している。仙川用水は情報が少ない上に、資料によって記述が異なったり名称の紛らわしさによる混乱も見られ、未解明な点も多い。その存在は深大寺用水/入間川の水路の変遷の謎解きを複雑なものとしている。追々記事の中でふれていく。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16161424.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16161424.jpg)
深大寺用水は、先に記したように1871(明治4)年に開削された。水路開削の発端は1855(安政2)年の安政大地震で「入間川」の水源の湧水「釜」が地震の影響で止まってしまったことにある。これらの経緯についても追々触れていく。用水は戦後しばらくまでの間は利用されていたが、昭和38(1963)年2月に水利権組合である「砂川村外七ヶ村用水組合」が解散してその役割を終え、排水路化したり埋め立て・暗渠化された。現在残っているのその痕跡を以下、たどっていく。
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人見街道と武蔵境通りが交差する三鷹市野崎交差点の北西、梶野新田用水(の野崎分流)であった区間の流末。ここだけなぜかコンクリートの蓋暗渠が残されている(09年3月撮影)。このすぐ先、野崎交差点から深大寺用水が南下していた。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16171127.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16171127.jpg)
野崎八幡の北側で武蔵境通りと別れてまっすぐ南下していく(写真左側の道)。70年代までは埋もれかけた水路が残っていたようだが、現在は歩道となっている。写真は2008年6月撮影のもので、現在は武蔵境通りが拡幅されている。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16171513.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16171513.jpg)
水路跡の道は東八道路を越え、ドン・キホーテの脇を南下していく。この区間は痕跡らしきものは見当たらない。強いて言えば、ドン・キホーテ敷地と道路の間にある、所々に木の生えた帯状の空き地だろうか。深大寺用水はこの先で、T字で「東堀」と「西堀」の二手に分かれていた。西堀は一旦分かれた武蔵境通り沿いに再び戻り、深大植物公園の方へ流れていく。そして今回追う東堀は、東の入間川源流地帯へと向かっていく。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16171917.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16171917.jpg)
水路の分岐点だったT字路を東に向かうと、道路から分かれた水路との敷地が姿を現す。入り込むことはできないが、周囲を回りこんでいくと、民家の裏手を抜け、佐川急便の配送センターの敷地内では砂利敷となって残っているのが見える。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16172125.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16172125.jpg)
佐川急便配送センターの東側の水路跡はこのような未舗装の路地となる。ここは抜けられる。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16172587.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16172587.jpg)
抜けた先、カクンと短い坂を降りると、入間川源流の浅い谷戸「諏訪久保」の突端に出る。水路はかつてここで更に二手に分かれ、谷戸の中央を流れていた入間川を囲むように、谷戸の東縁と西縁を南に降っていたという。谷戸は水田となっていて、入間川は水路から田に引き入れた水の排水路の役割を果たしていたようだ。入間川源流と東縁の水路はいまやほとんど痕跡を残していない(次々回あたりでとりあげる予定)が、西側の水路は70年代頃まで排水路として残っていたようで、この辺りでは不自然な歩道にその面影を残している。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16172891.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16172891.jpg)
不自然とはどういうことかというと、車道と歩道の段差がやけに高いのだ。段差は護岸状のコンクリートとなっていて、穴を埋めたような跡もある。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_1617321.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_1617321.jpg)
沿道の家の出入り口などでは、歩道の路面はスロープがつけられているが、このコンクリートはそのまま高さを保った後にバッサリと切り取られている。この様子から察するに、コンクリートはもともと水路があった頃から存在していて、護岸の役割を果たしていたのではないかと思う。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16173454.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16173454.jpg)
歩道の上には古びたコンクリートのマンホール。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16173984.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16173984.jpg)
道路はそのまましばらくまっすぐ南下していくが、水路は地形に沿って東にそれていく。ちょうどそれに合うように歩道が尽きて、東(写真左奥)に雰囲気のある水路跡の道が下っていく。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16174010.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16174010.jpg)
水路跡の道は、諏訪神社の脇を緩やかに下っていく(流れは写真奥から手前)。諏訪久保の地名はこの神社に由来するのだろう。そしてここにはかつて水車が設けられていたそうだ。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16174496.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16174496.jpg)
そして諏訪神社の参道入口で三鷹通りに出る。白い車止めがささやかに水路跡を主張している。ここから先、コンクリート蓋暗渠や二段水路跡、隧道跡など興味深いポイントが続くが今回はここまで。
![深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(1)深大寺用水東堀の上流部その1_c0163001_16174737.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201112/03/01/c0163001_16174737.jpg)
(つづく)
私も入間川と東堀の一部をたどってましたので、記事にしようかと思っていたところです。
しかし、tokyoriverさんも「世田谷の川探検隊」さんも記事にされようとしているのに、先走ってしまうのも無謀かな、とも思っていました。
tokyoriverさんのご報告が終わるのを待ってから考えたいと思います。
隧道跡っていうのもすごいですね。
この先も楽しみです。
地図を見るだけでも複雑さが伝わってくるようで、都心と違って交通の便がちょっと悪いあの地で丹念な探索を重ねる、ということにまず頭が下がります(自分だったら途中で蕎麦食べて酒飲んで終わります・・・)。
わくわくしながら続編を待ちます!
さすが、神出鬼没ですね!隧道跡は当時の水争いの厳しさが伺われます。次々回くらいに取り上げる予定です。
ようやくです。複雑なのでなかなか文にするのが難しいのですが、何とか頑張って書きます。実は最後の写真の場所の直ぐ側に深大寺蕎麦の店があって、最初に訪問したときはそこに立ち寄ってしまいました。
![](http://s.eximg.jp/exblog/user3/img/common/icon-comment.gif?1735262376)
仙川用水というのが存在したんですね。
なにかの資料で「仙川養水」と刷り込まれ、じっさい仙川を涵養しているようにも見えるので、てっきりそう思い込んでいました。
それはそうと金子村という、ある意味で懐かしい名前を見て思わずにんまりしてしまいました。
つつじヶ丘駅の旧名が金子駅なんですよね。
(ずいぶん昔、この駅近辺で地元の方(なのかな?)が執拗に主張する掲示をしていて、それで知りました)
この用水については本来的に「上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水」であることを念頭におくことでだいぶ情報の整理ができましたが、資料での記述が真偽正誤入り交じっていて非常に実体がつかみにくいです。入間川養水とか、旧金子地区で品川用水と呼ばれていたりとか、逆に仙川を仙川用水としている資料もあったりと、用水路なのに呼称が様々であることもその一因かと思われます。