狛江暗渠ラビリンス(2)「内北谷用水」の痕跡をたどる
2012年 07月 07日
※なお、地図に描画した水路はすべて現在では埋め立てもしくは暗渠化されている。
前回も記したように、六郷用水は当初、六郷領のみに水利権があり、途中の世田谷領では1726(亨保11)年にようやく利用できるようになった。しかし、狛江では取水口提供の見返り、もしくは六郷用水で分断された野川の代替なのか、開通直後から分水が許されており、最終的には3本の分水路が引かれていた。内北谷用水はそのひとつにあたる。
内北谷用水について触れた文献は少なく、またネット上でもざっと見た限りこの用水路を取り上げたサイトはなかった。そんな忘れられた水路なのだが、今でもその痕跡は部分的に残っている。それらを辿っていこう。
内北谷用水本流
エコルマホールのそびえる狛江駅北口。現在ではかつての風景は抹消されているが、写真中央の歩道を手前から奥左側に向かって、1965年まで六郷用水が流れていた。写真の右側外れにはかつて狛江尋常高等小学校(現狛江市立第一小学校)があり、その前の通称「堰場」と呼ばれていた場所(おそらく写真手前か、正面の植え込みあたり)で、内北谷用水が分水されていた。
歩道を東に歩いて行くと、エコルマホールの向いに、六郷用水に架かっていた「駄倉橋」の親柱が保存されている。明治後期には「めがね橋」と呼ばれたアーチ状の構造の橋。その駄倉橋のすぐ南側に、内北谷用水に架かる和泉橋があった。六郷用水は深い掘割を流れていたのに対し、内北谷用水はかなり浅かったようだ。
二つの橋の上を通っていたのは品川道/筏道と呼ばれる古道。多摩川を筏で下った筏乗りが、六郷の河口で筏を材木として引き渡した後、この道をたどって奥多摩まで帰ったことから筏道と呼ばれ、また、府中の大国魂神社での年1回の祭礼に使う海水を品川の海から運んだ道でもあることから、品川道とも呼ばれているという。
駄倉橋の北側、エコルマ3の裏手には「駄倉塚」がかろうじて残されている。狛江は狛江百塚とも呼ばれるほど古墳が非常に多い土地で、駄倉塚も5世紀半ばにつくられた全長40m、高さ4mほどの円墳だった。明治後期の一時期には、この塚の松の木に旗をあげた天気予報告知が行われていたという。
内北谷用水は和泉橋の先で、六郷用水を離れ南へと下っていた。少し前までは駅前に水路跡が残っていたようだが、現在は狛江エコルマ2ビルが建ち消滅してしまった。ただ、小田急線の線路の北側に、わずかな区間だけ行き止まりとなって水路の痕跡が残っている。
そして線路の反対側に回ると、ちょうどその痕跡の延長線上に、砂利道となった水路跡が続いている。
砂利道の区間が終わる地点から上流方向を振り返る。マンホールがあるが、暗渠(下水)となっているのだろうか。
下流方向を見ると、中途半端な空き地があって、民家の庭の木戸へと続いているのだが、ここをかつて内北谷用水が流れていた。
ここから先、水路は品川道/筏道のかたちに沿って逆「く」の字に曲がりながら流れていた。水路跡上を辿ることはできないので、コの字ウォークで回り込みながら確認していく。写真の地点では、水路の跡と思しき窪みが残っていた。
その品川道/筏道は、今では静かな住宅地を通る何の変哲もない道となっているが、Y字路に庚申塔がぽつんと残っていた。花が供えられ、取り囲む木々も良い感じだ。
左を通るのが品川道/筏道、右は前回記した大山道へと繋がっている道で、庚申塔にもその旨道標が刻まれているようだ。かつて多くの筏師たちが、この庚申塔の前を府中方面へと向かい通りすぎていったのだろう。
更にコの字で下っていくと、水路跡が宅地の間から道路沿いへと出てくる。写真奥から、手前の道路沿いの未舗装地に続くラインが水路跡だ。木々の生え具合からは、程よく放置され、程よく手を入れられている様子が伺われる。
その先は再び砂利道となって狛江通り(写真奥のバスが見えるところ)に出る。はっきりとした水路の痕跡はここで終わる。
内北谷用水分流
ここまでたどっていきた水路跡の東側(右岸側)にはかつて「内北谷のたんぼ」と呼ばれた水田が広がっていて、その中に内北谷用水からさらに分かれた用水路が数本流れていた。小田急線北側の旧野川沿いの「北谷」地区が耕地整理された際、この「内北谷のたんぼ」もあわせて整理され、条理状の区画となった。その際に内北谷用水からの分水路も、区画にあわせ直線に改修された。その水路跡が1本残っている。
小田急線線路の南側、車止めに遮られた道がまっすぐに続いている。これが内北谷用水の分水跡だ。道端に未舗装のエリアが帯状に残っている。これがおそらく、最後にのこった水路の痕跡と思われる。
未舗装のエリアは雑草が生えたり、植え込みに利用されたりしながらずっと道端に続いている。写真の地点では砂利敷になっており、マンホールもある。
世田谷通りの手前で、この未舗装エリアは姿を消す。そして先の内北谷用水本流と合流したのち、さらにもう1本の内北谷用水分流と合流して、狛江三叉路の北東側で、六郷用水から分かれてきた岩戸用水と合流していた。大正時代までその水路は複雑だったが、昭和初期の耕地整理で、これらの合流水路も単純に整理されたようだ(地図参照)。
写真はその内北谷用水の3つの流れが合流していた辺り。奥から本流と奥右側から未舗装エリアつき分流が流れてきて合流し、手前に流れてもう1本の分流に合わさっていたようなのだが、全然痕跡はない。
ただ、路上には「狛」の字が刻まれた古そうなマンホールがあった(現在のタイプは「こ」の字」)。
狛江三叉路の辺りは前回の記事でも触れたようにかつて「銀行町」と呼ばれ、大正から戦前にかけては狛江随一の繁華街だった。現在はすっかり廃れているが、写真にうつる「鳥政」や「高麗家蕎麦」はその当時から続く店だ。
その三叉路北東側で内北谷用水が合流する岩戸用水には、駅近辺では唯一のコンクリート蓋暗渠が残っているが、それについては次回以降とし、最後に復習の地図を。
(つづく)
あの辺も水路だったのでしょうか。
コメントありがとうございます。楽しんでいただけてこちらも嬉しいです。「田中屋」ちょっと場所の検討がつきません。すみません。。。
ただ、市役所のど真ん中を通って旧野川にたどり着く川跡らしきルートがあったのですが、こちらの地図に書いてなかったので、何者だったのだろうかと思っているところです。
今回煩雑になるので地図には記していませんが、旧野川流域にもたくさんの農業用水が野川に並行して分けられていました。市役所のところを通っているのはその一番西側の水路です。そんなところまで行かれているとはさすが猫またぎさん。