戸越銀座最深部の暗渠へ
2015年 06月 26日
商店街の通りができたのは昭和2年。現在商店街になっているところは浅い谷筋となっていて、かつては水はけの悪い低湿地で、水田などに利用されていた。宅地化されたのは関東大震災で都心から人々が移住してきたことがきっかけだ。関東大震災以前と以後で1万分の一地形図を見比べてみると、以前は中原街道以外は人家は街道沿いや台地の上に点在するだけで、谷底に沿って水田や池、川が見られるのに対し、以後は一気に市街化したことがわかる。
(地形図は東京時層地図より引用)
底の水田は整地され中央には東西に伸びるまっすぐな道がつくられたが、この際に水捌けをよくするために、銀座から運ばれた煉瓦が舗装に使われた。北品川にあった品川白煉瓦製造所の仲介で譲り受けられた敷石用煉瓦で、銀座の道路の舗装に使われていたが、震災を契機とした敷き替えで不要になったものだという。そして、この煉瓦を由来に通りは「戸越銀座通り」と名付けられた。全国各地にある「○○銀座」地名の始まりである。
段彩図で地形をみてみると、今でも西から東に向かって徐々に深くはっきりしていく、目黒台に刻まれた谷戸の地形がはっきりと確認できる。山の手の他の谷戸と同様、かつて、この谷筋も川が流れていた。図で青いラインが今はなくなってしまった川、そして赤いラインは今はなくなってしまった用水路である。川の水源は中原街道を越えた西側の窪地だったようだ。台地の上には戸越銀座の谷を挟むように品川用水が通っており、そこからの漏水も加わっていたのだろう(※)。段彩図には便宜的に一本のラインで表したが、実際には川は戸越の谷戸の両縁に沿って2〜3筋に分かれ、水田を潤しながら流れていた。そして、戸越銀座通りが作られた際に、一本にまとめられ、通りの下を暗渠で流れるように改修された。
現在は通りの直下に、「下水道戸越幹線」と呼ばれる2m四方ほどのコンクリートの暗渠が埋まっている。このように水路の改修と暗渠化、道路整備が同時に行われたため、戸越銀座の谷を流れていた川の痕跡はほとんど残っていない。
さて、ほぼ一直線に近いこの谷だが、東急池上線戸越銀座駅付近で、十手の先のように北側にL字型に折れ曲がった枝谷が分かれている(段彩図でピンクの丸で囲ったところ)。そして、この谷筋に流れていた小川の痕跡は今でも暗渠として残っている。短い区間ではあるが風情のあるこの暗渠をたどってみよう。
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戸越銀座駅の改札口を出て、五反田方面ホームの裏手の住宅地に入ると、家々の植栽に挟まれて、少し高くなったか細い路地がひそんでいる。これがかつての小川の跡だ。意識しないと見過ごしてしまいそうな、しかし一度気がつけば、暗渠者なら辿らずにいられなくなるような、暗渠路地である。
奥へと入っていくと、家々の隙間をすり抜けるように、細いコンクリート敷の暗渠が続いている。下水道台帳を確認すると、足もとには幅60〜70cm、深さ1mほどの矩形の暗渠が下水道になって埋まっているようだ。
しばらく進むと、路上にはマンホールが間隔を開けず次々に連なっていく。
いずれも東京都(の下水道)の紋章がついたマンホールだが、中には、紋章の位置が中心からずれているものもあった。なぜだろう。
道の両側には暗渠の入り口から途切れることなく、コンクリートの縁石が続いている。もともと水路にあった護岸の名残なのか、暗渠化したときに合わせてつくったのか。いずれにせよ路地の暗渠感を高めるのに一役買っている。
やがて縁石はなくなり路地はさらに細くなっていく。路上はコンクリートの上からセメントを塗ったような、まばらな色合い。左側には擁壁が迫り、排水管の継手が何本か突き出して暗渠に接続されている。
左のカーブを抜けると、急に視界が開ける。かつての2つの水路の合流地点なのか、右側へと細い路地が分かれている。今辿ってきた暗渠はコンクリートの路面はその幅のまま、道幅は右側のアスファルトの分だけ広くなる。
振り返って見ると、暗渠のコンクリート敷が路地の幅のままにカーブを描き、一種の美しさを醸し出している。
コンクリート暗渠は道がクランク状に折れ曲がる地点まで続いて唐突に終わる。
暗渠が尽きた地点から、下流側を望む。かつてはちょうどこの辺りに小さな池があったようだ。湧水や雨水を集めたため池だったのだろうか。ため池を流れ出たこの小川は、谷底の水田を潤していたはずだ。今、小川は下水となって、谷底の排水や雨水を集める。
暗渠のなくなったやや上り坂のクランクを抜けると、そこは中原街道の新道だ。東に少し進んで、暗渠の道とは別の谷底に降りる道を駅方向に戻ると、さきほど分れた方の暗渠の"上流端"に出る。路上はうっすらと苔むしており、大谷石の擁壁も湿気を孕んで緑がかっている。50mほどの細い路地を抜けると先ほどの"合流地点"となる。
ここまで辿ってきた暗渠は小さな谷戸の西側の縁に沿って流れているのだが、谷戸の東側にもかつて平行して水路があったようだ。そちらの痕跡もあまり暗渠らしさはないものの、路地として残っている。こちらもマンホールが点在していて、東京都の紋章が入った大きなものもいくつかあるが、なぜか下水道台帳にはこの路地には下水道は通っていないことになっている。どのような扱いになっているのだろうか。
再び、戸越銀座駅。戸越銀座の発足と同じ年に開業したこの駅の開業は昭和2年と地下鉄の銀座駅より数年早い。そして、補修されてはいるものの、ホームは開業当時のままだという。いま辿ってきた川は、駅付近のどこかで戸越の谷の本流に合流していたはずだ。本流は駅ができた時にはすでに暗渠化されていたはずだが、今辿ってきた支流はどうだったのだろうか。90年前、できたばかりのホームに立ち電車を待つ人たちには、小川の水面は見えていたのだろうか。もっとも、地図を見る限り川沿いはすでに宅地化されているから、いずれにせよ小川はその役割をすでに終え、ドブになってしまっていたのかもしれない。ホームで電車を待ちながら、ふと何となくそんなことが気になった。
ごぶさたです、おひさしぶり。そうの字が違いますが・・・(笑)実家、そういえばこっち方面でしたね。川はなくなっても谷は残っているから、雨が降ればそうなりますね。
コメントありがとうございます。用水と川の配置が美しいですよね。東急池上線は緑色の電車が走っていた頃の雰囲気がまだ残ってますね。
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