googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら。
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多摩川にかかる日野橋へと続く、立川通りの東側。根川が暗渠から姿を現す地点には3つの暗渠が合流している。その中で、中央に見える土管が柴崎分水の合流点だという。柴崎分水はここで根川に合流し終わりとなるが、その水の流れる先をしばし追ってみよう。

根川は複雑な経歴を持つ川だ。根川は、もともとは立川段丘の崖線下に湧き出る水を集め、昭島市中神付近から、多摩川に並行するように東に流れていたと思われる。そこに、明治時代中期、残堀川が接続された。玉川上水に合流していた残堀川は、水質の悪化から玉川上水に流れ込まないようにするため、上水を越えて南下する下流部の新水路が開削された。その際に立川市富士見町付近で立川段丘を下って以降、根川に流れ込むようになった。このため根川の水量は一気に増したという。その後、残堀川に由来する度重なる氾濫から、1972年には残堀川の流路が変更され、途中から多摩川にショートカットする流路がつくられた。この際、根川の下流部は上流部と切り離され短い川となってしまった。そのうえ、上流部は埋め立てられた上で小川の流れる緑道として、地下水と下水処理水の混合水が流れるせせらぎがつくられた。さらに1990年代に入って、根川緑道沿いにある立川市錦町下水処理場から混合水の10倍の水量となる無色無臭の高度処理水が流されるようになり、これにあわせて再整備され、現在の姿になったなったという。
暗渠部より下流の根川は、昭和初期に整備された土手と桜並木の名残が残っているようで、なかなか風情のある景色となっている。

根川は立川球場の北側を500mほど流れた後、多摩川に合流する。合流地点直前は川岸まで立川段丘の崖線が迫っており、貝殻坂橋という吊り橋がかかるあたりはちょっとした渓谷風になっている。橋のところで流域は立川市から国立市へと変わる。川岸ではサギが魚を狙っていた。

この辺りは既に多摩川の河川敷内に入っている。傍らには、こんな看板があった。

吊り橋の少し先で、根川は多摩川に合流しているのだが、正確には日野橋付近で、府中用水に水を引くために多摩川の本流から分かれた流れに合流している。そして、200mも進まないうちに、その分流が府中用水に取り入れられる地点に至る。取水口の手前は淀んだ淵になっていて、南側には堤防を越えて余水が流れ落ちている。

府中用水の取水口には、大正初期につくられたと思われる、由緒ある取水樋門が3つ並んでいる。多摩川流域でも最古の部類に入るものだそうだ。もともとは4つの樋門が連なっていたが、北側のひとつは現在では埋められている。この水門は毎年5月から9月にかけて開けられ、それ以外の時期は閉まっている。

府中用水は取水口から取り込まれた後、少しの間暗渠となっている。その上から多摩川の河川敷を望む。遥か遠くに右から左へと多摩川の本流が流れているのだが、遠すぎる上に手前の河川敷には木々が生い茂り、水面を望むことは出来ない。右側から画面中央奥に向かって先の余水が流れている。手前から奥に向かうコンクリートの無骨な水路は緑川だ。

その緑川の暗渠の出口が立川段丘の崖線にぽっかりと口を開けている。上部には「緑川排水樋管」と記されたプレートがはめられている。矢川の項でも少し触れたが、緑川は立川駅北側一帯の排水路としてつくられた人工河川だ。おそらく終戦直前につくられたこの川は1960年代にはその大部分は暗渠化され、上にはみのわ通りがつくられた。十年ほどまで下流の数百メートルは開渠だったようだが、いまではこうして完全に暗渠となっている。このすぐ下を先の府中用水が潜って越えている。

こうして辿って来てみると、柴崎分水を流れて来た水のなかには、もしかすると根川と多摩川の分流を経由して、府中用水へと流れ込んでいるものもあるかも知れない。水の旅の壮大さを垣間見るような、そんな感じだ。
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さて、最後に柴崎分水の分水路の遺構をいくつか取り上げよう。下の地図の赤い点の地点を上流側(左側)から。

まずは、柴崎分水東側水路の暗渠というか流路跡。西立川駅の南東で分かれていた分水路は、水車が4カ所ほど設けられ、途中柴崎町1丁目の諏訪神社付近では二手に分流するなど、こちらも重要な役割を果たしていたようだ。現在では埋め立てられその面影はほとんど残っていないが、この水路が再び本流に合流する直前の地点には暗渠が残っていた。水は涸れているものの、細いコンクリート蓋の水路が路地の真ん中を通っている。

よく見ると、コンクリート蓋の外側のアスファルトに玉石が埋もれているのが見える。もともとはこの玉石のところまでが水路で、玉石の右側のコンクリートに玉石がはめ込まれていたようだ。暗渠化される際に、水路を埋め立てたのち、一回り幅の狭いコンクリート溝を埋め込んで暗渠としたのだろう。

次に取り上げるのは、前回紹介した、柴崎分水が滝のように流れ落ちる邸宅の中で分岐していた、立川段丘の上を流れて行く分水路跡。
敷地の北東角、水路が屋敷から外に出て行っていた地点に、石垣の下に水路の抜けていた痕跡が残っていた。石垣の中をのぞいて見たが、埋め立てられてしまったのか、水路の痕跡はなさそうだった。

その痕跡の向いの家の玄関前には石蓋の暗渠の跡が残っていた。一見ただの敷石にも見えるが、隙間があって中は空洞だった。

更にその延長線上にある、別のお屋敷の脇には未舗装の細長い空き地が。ここに水路があったようだ。

この水路は細長い空き地のある屋敷の中を抜けた後、モノレールの柴崎体育館駅の東側に抜け、立川段丘の崖線を下って、柴崎分水本流に合流していた。柴崎体育館駅の東側の崖線には高い木が茂っている。

崖線の直下に行ってみると、分水路が暗渠から顔を出している地点が残っていた。ここのすぐ南側は前回紹介した菖蒲田となっている。水路はかつて崖線下をしばらく南東に向かって、前回紹介した田圃のそばで本流に合流していた。

長くなったが以上で玉川上水柴崎分水(立川用水)のシリーズを終わりとする。玉川上水からは数多くの分水路が引かれていたが、取水口から末端まで現在でも水が通じている分水路は、現在ではほとんどないのではないだろうか。そういった意味で柴崎分水は非常に貴重だと思われる。そして、往時の姿を留める素堀の水路、様々なタイプの暗渠、線路を渡る水路橋、斜面を直に降下する水路、最後に現れる水田など、みどころに富んでおり、地図上でも住宅地図レベルにならないと記載されておらず、迷路を辿るように流路を解明していく楽しみもある。興味を持たれた方がいたら、ぜひ辿ってみていただきたい。
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中央線沿いから離れた柴崎分水の水路は、住宅の密集する隙間を縫うようにジグザグに流れていく。流路沿いに道はないので、横切る道を探しながら辿っていくと、やがて、草むらの中を普済寺の境内へと向かっていく。

普済寺は立川一帯を領有していた立川氏の菩提寺として1353年に建立された寺で、敷地は立川氏の居城跡だという。境内には防御用の高さ2mほどの土塁が今でも残っている。
広々とした境内を西向きに通る参道を本堂に向かって行くと、本堂の直前に立派な石でできた太鼓橋が架かっていて、その下を柴崎分水が流れていた。

墓地との境目をクランク状に流れて行く。川底も玉石で覆われている。

墓地へ向かう小さな橋がいくつも架かっている。右岸側はちょっと開けた空間。ここも寺の敷地のようだ。

道路沿いを下って行く。やや傾斜があるせいもあってか、水の流れは早い。この辺りも流路はジグザグで行ったり来たり。

宅地の中をところどころ蓋掛けされながら抜けて行く。すぐ左側(南側)には立川段丘の崖線がせまり、崖線の下には残堀川が流れている。

ここへきてようやく、用水沿いに畑が現れる。市民農園らしく、用水路の水が使われているという。畑の少し先ではかつて、青梅線の南側で分かれた分水が再度合流していた。こちらの分水はほぼ埋め立てられてしまっているようだが、合流点の近くだけ痕跡が残っていた。これについては次回とりあげよう。

流路は宅地の間を抜け、やがて木の生い茂る大きな敷地を持つ邸宅内へと入って行く。敷地内には用水路の水をひいた池があり、その脇にはかつて水車もあったという。また、本流は敷地内で立川段丘を下るが、かつてはしばらくそのまま段丘の上を流れて行く分水が敷地内で分岐していた。この痕跡についても次回取り上げる。

邸宅の南側は立川段丘の斜面。柴崎分水はここで一気に段丘を下る。画面の奥、ちょっとわかりにくいが斜めに水が流れているのが見えるだろうか。水路が滝というか、すべり台状になっていて、凄い勢いで水が流れ落ちている。

塀の向こうが邸宅の敷地。水は写真右上から左下へ流れ落ち、塀の下から出て来ている。流れ落ちた地点の水が白くしぶきを上げている。下った後は直角に曲がって、邸宅の南側に沿って東へ流れて行く。

川沿いの車の出入りのためか、一部は蓋をされて暗渠になっている。ブロック塀の右側には溜池もあって、用水から水を引いているようだ(見に行った時点ではまだ水が引かれておらず、からっぽだった)。

崖線から少し離れると、流路はコンクリート護岸の平凡な水路となる。ここだけ見ると、はるか拝島方面から水が引かれているようには見えない。

多摩モノレールの柴崎体育館駅の下をコンクリート蓋暗渠で潜って行く。何も知らなければただの蓋付きの側溝にしか見えない。

駅の東側は立川公園となっていて、公園の中央を素掘りの水路が抜けて行く。北側に菖蒲田がつくられていて、用水の水が引かれている。かつては公園全体が水田だった。公園の南側にもかなり立派な水路がある。柴崎体育館駅の西側で分岐している分水路だが、こちらの水は止められている。そして、菖蒲田の北側、立川崖線の直下にも水路の痕跡が残っている。こちらは先の邸宅で分水された分水路だ(この痕跡については次回)。

菖蒲田の南側に至ってはじめて、柴崎分水の水が本来の用途で使われている風景があった。小さな水田に、柴崎分水の水が張られている。分水沿いに唯一残っている水田だ。極端に言えば、この小さな水田のために、はるばる遠くから水が引かれていることになる。

ちょうど老人がひとりで田植えをしていた。

水田を南側から見る。奥には菖蒲田があり、その背後には崖線を覆う緑がこんもりと見える。

柴崎分水は水田の北側の崖線の下をコンクリート水路になって南下し、立川公園南側の分水路と合流する。ここでは分水路に水田の余水が流れ込み、水が流れている。

水田を離れた柴崎分水は、柴崎体育館の北側を東進していく。水深は浅いが幅のある、コンクリート梁付き水路。

流路は根川橋の北側で、根川沿いにつくられた根川公園の敷地内へ。根川は残堀川に水源を奪われた数奇な運命を持つ川だ(詳しくは次回)。公園の隅、目立たない一角に最近整備されたビオトープと柴崎分水の看板があった。柴崎分水の説明板にはどこもなぜか「ほとんどが暗渠化」と書かれているのだが、実際には暗渠化されているのはせいぜい半分くらいの区間。

根川橋の南側の流路。あまり用水路らしくなく、普通の川のようだ。

南東にしばらく流れたのち、流路は根川公園の池にぶつかる。この池は鬱蒼とした緑に囲まれているが、根川の暗渠の上につくられた人工池だ。柴崎分水は池に流れ込んでいるようにもみえるが、実際にはここでは合流せずに池に沿って更に東へ進み、根川が暗渠から姿を現している地点で、根川に合流している。根川への合流地点については、次回に紹介しよう。


googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら。
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奥多摩街道沿いに出て姿を現した柴崎分水は、街道沿いに暗渠と開渠を交えながら南東へと下って行く。道路の南側を通る区間では、微妙に街道から離れ、街道沿いの民家の敷地内を通っていたりする。下の写真の民家では庭の池に分水の水を引き込んでいた。

しばらく進むと水路は奥多摩街道から離れて北東へと静かな住宅街の中を進んで行く。古い民家の立派な門の前には、小振りだがしっかりした造りの石橋が架けられていた。

道路の脇を流れて行く用水路。一見ただの側溝に見えなくもないが、遥か羽村で多摩川から取水された水がここまで流れてきているのだ。

水路は中途半端に穴のあいた変な暗渠〜コンクリート蓋暗渠〜鉄板暗渠となって住宅地の中を回り込み、東へと進んでいく

そして、中央線の切通しにぶつかると、細長いコンクリート蓋の暗渠となって、線路に沿って南下していく。蓋は比較的新しそうで、道路にぴったりと嵌っていて中を流れる水の気配はまったく感じられない。

あまり暗渠の蓋らしからぬコンクリート板の先に、左に曲がる蓋が。

曲がった先には、中央線の切通しを鉄橋で越える水路があった。中央線は立川段丘の台地を日野方面に下るために、台地を切り開いて下っている。その台地の上を柴崎分水が流れているため、このように橋となっているわけだが、よくあるような送水管ではなく、水面が露出した状態で越えるのはそう多くはないのではないか。かつて恵比寿駅の西方で三田用水が旧山手通りを越えるところで同じような水路橋となっていた事例を思い出させる。

水は深さこそ浅いものの勢いよく流れている。雨で増水したときなど、溢れやしないのだろうか。

線路を渡りきると、玉石の護岸の水路が姿を現す。線路沿いに少し北上したのち、再び暗渠となり、個人宅の敷地内を東へと抜ける。

抜けた先は再び道路沿いに東進。水路端に説明板が設置されていた。今年の1月に建てられたばかりのものだった。

そばには洗い場の跡もあった。脇は駐車場になっているが、かつては民家か畑だったのだろう。

石でできた、丸みを帯びた欄干があった。かなり古そうだ。この少し先で水路は南へと向きを変え、再び奥多摩街道沿いに出ると今度は西向きへと流れて行く。

街道からやや離れて個人宅の中に入っていったり、建物の下を通ったりしたのち、奥多摩街道の脇へ。水路は少し深り下げたところを通っている。

街道沿いに熊手や簀の子、籠などの竹細工の店があった。もともと近隣の農家の農具を売っていたのだろう。店の前は鉄板暗渠となっている。
奥に見えるのは奥多摩街道が中央線を越える陸橋の欄干だ。少し先(西)にいけば、最初に紹介した池や石橋のあったエリアだ。流路がずいぶんと迂回してきたことを示している。

水路は竹細工店の敷地内を経由した後、再び中央線沿いに戻り、未舗装の道端を南下して行く。そして、写真の青緑の柵のところで中央線を離れ、東に曲がり住宅地の中へと流れて行く。

(以下次回)
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昭和記念公園の北方で暗渠となって行方をくらました柴崎分水の水路が再び姿を現すのは、昭和記念公園中ほどの残堀川遊水池の南側からだ。
残堀川は昭和記念公園と、まだ空き地となっている立川基地跡敷地の境界を流れており、川沿いにつくられた遊水池がつくられている。遊水池そばの看板に柴崎用水路の字が見える。

普段は遊水池はもちろん川にもほとんど水はない。川沿いには雑草が生い茂り、荒涼感を漂わせている。遠くには、立川基地跡に残る陸軍航空廠の煙突が小さく見える。

遊水池の南西角に接して、残堀川に「やまぶき橋」がかかっており、その左岸側(東側)から、鉄柵で蓋をされた柴崎分水が、残堀川に並行して流れている。写真右側には残堀川の護岸が見える。立川基地跡北側では残堀川の右岸側を流れていたので、どこかで残堀川を渡っているはずなのだが、地図や空中写真を見る限り、どこで渡っているのかわからない。もしかすると「やまぶき橋」の下に懸樋や導水管があるのかもしれないが、確認を失念。

柵の下を水がさらさらと流れている。枯れ果てた残堀川とは対照的だ。

しばらく進むと、水路は再び完全な暗渠となってしまうが、写真のようにところどころ、顔を出しているところもあり、残堀川の左岸に並行してずっと続いている。

花木園のあたりで、石積み護岸の水路が姿を現す。

公園の緑の中を緩やかに曲がりながら流れていく。川の上にかかっている木の中にはものすごい数のムクドリがとまっていて、下を通るといっせいに飛び立っていった。

花木園を抜けるあたりで、水路は再び鉄柵の覆う「半渠」へと入っていく。

「半渠」は残堀川に沿って南下し、公園の南側にかかるふれあい橋の下付近で再び完全な暗渠となって姿を消してしまう。

公園の外に出て、JR青梅線の残堀川橋脚のそばまで行くと、その脇に柴崎分水が姿を現していた。線路をくぐるところだけは、開渠になってるのだ。線路の北側には、水かさが増したときに残堀川に余水を流す短い水路があった(写真右奥の青い柵のところが残堀川)

青梅線を越えると、柴崎分水は残堀川から東へと離れていく。写真の場所にはかつて水車があったそうだが、今では水路の幅の空き地があるだけだ。

青梅線と並行する道路に沿ってしばし東へ。この区間の水路は完全に暗渠となっていて、地上のマンホールしか目印がないが、残念ながらこの区間のマンホールは下水道と全く同じ「下水」と書かれた蓋となっている。実際には下水は混入していないはずなのに、残念。蓋の穴からは、勢いよく流れる水が見え、中に流れているのが下水ではないことがわかる。

しばらく東に進むと、こんどは南下する道へ沿っていく(かつてはここで分かれ、もう少し東に進んでから南下する支流もあった)。ここでは暗渠はガードレールに囲われた歩道の下を通っている。さっきの区間よりはやや暗渠っぽさがある。

青梅線の支線を越えた先から、ようやくコンクリート蓋付の暗渠となる。時折設けられた柵からは中の水流が覗ける。

水路は奥多摩街道にぶつかって再び東へと流れていくが、ここでようやく水路はその水面を現す。

玉石できれいに護岸された水路は、以後しばらく、ところどころ暗渠となりながらも奥多摩街道に沿って流れていく。

(以下次回)
最上流部以外の区間は地図の記載もなく、間に昭和記念公園が挟まることから、もはや水が止められていたり、埋め立てられているものだと思っていたのだが、認識を改めたのが、namaさんの「暗渠さんぽ」での昭和記念公園の記事。
残堀川に沿って流れる立川用水の暗渠と「半渠(namaさん命名)」が紹介され、いまだに水が通っていることに驚いた。そして、先日矢川の失われた源流部を辿った際に、偶然遭遇した柴崎分水の末端にも勢いよく水が流れていた。これはつまり、全区間、現役で水が流されているということなのではないかと、俄然興味がわき全区間を辿ってみたところ、実際に分水地点から最後まで水流が途切れることはなく、開渠と暗渠が入り混じったり、迷路のように入り組んだり、中央線を水路橋で越えたりと、実に見所が多く辿り甲斐のある水路だった。そんなわけで、今回から、数回にわけて紹介してみうようと思う。
まずはgooglemapより全体図(組み込みリンクができないので、画面コピーで)

googlemapにプロットした地図はこちらを。
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柴崎分水は西武拝島線の西武立川駅から南東に300mほどの地点にある「松中橋」で玉川上水から分水されている。分水地点には2つ水門が並んでいるが、左側は砂川分水で、右側が柴崎分水の水門だ。

松中橋の下流側には2つの用水の取水用に水位をあげるための堰が設けられている。

砂川分水は、しばらくの間玉川上水に並行して流れているが、柴崎分水はすぐに分かれて南東へと下っていく。松中橋を通る諏訪松中通りを越えたところで、見えにくいがコンクリートの擁壁の下の土管から水が流れ出している。

水面を見下ろすと、魚がうようよ。流れに逆らって泳いでいる。

しばらくは深い掘割の護岸の中を進む。右岸側には敷島製パン、左岸はグリコ乳業の工場がある。

工場を抜けると水面は地表とほぼ同じ高さとなり、素掘りののどかな水路となる。

水路沿いには洗い場が。

道路のすぐそばに、全く柵もなければ護岸もない素掘りの水路が流れているのはちょっと感動的だ。水中には適度に水草があり、浅い水路だがあちこちにびゅんびゅんと魚が泳いでいる。

ちなみにこのあたりの地名は何故か「武蔵野」。武蔵野の車道脇を水がざぶざぶと流れていく。

最近できたと思われるマンションの前では、水路は堰きとめられて濠のようになっていた。柵に囲まれていて中には鯉が泳いでいる。今までの風景からするとちょっと残念な感じ。かつてはここには土手が築かれていて、その上を流れていたようだ。

濠の先、水路はいったん屋敷の林の中に入ったのち、再び素掘りの水路となって姿を現す。
どうやら屋敷の中で水路は二手に分かれていて、片方が滝になっているようだ。
先の場所にかつてあったという土手とあわせ、おそらく水車を回していたものと思われる。

ゆがんだベニヤ板の貼られた橋。いつ落ちることやら。

このあたりは昭島市と立川市の境界を流れている。水路は細いが、水流は早い。

「武蔵野」を抜け、中神町に入ったところで、流れは暗渠の中に姿を消してしまう。
分水地点からここまで約1km。

スーパーの脇に、タイル敷きの暗渠が続いている。

暗渠はまっすぐ進み、昭和記念公園西側の広大な空き地にぶつかる。この先しばらくは道路の北側にある幅広の歩道を東へと進んでいっているようだ。この広大な空き地は昭和記念公園などと同じくもともと米軍の立川基地(戦前は日本軍の立川飛行場)だった場所だ。1977年の全面返還以降放置されたままで自然林や背の高い雑草の生い茂る荒野となっているが、最近では「国際法務総合センター」の計画が持ち上がっているそうだ。

暗渠の痕跡はないが、「立川分水」と書かれたマンホールが暗渠の場所を示している。
道路の真ん中にマンホールがあることから、途中で歩道から離れていることがわかる。

東進すると、残堀川にぶつかる。

残堀川沿いに設置された案内板を見ると、柴崎分水はこの先いったん残堀川を離れ基地跡の空き地を南下したのち、直角に曲がって残堀川を渡り、その後残堀川左岸に沿って昭和記念公園の南に抜けているように描かれている。一見分水のほうが残堀川にあわせているようにみえるが、矢川のところでも触れたように現在の残堀川中下流は数度にわたる改修によって作られた人工水路で、柴崎分水の流路に沿って現在の残堀川の流路のほうが作られたという。

ここから先しばらく、柴崎分水の水路を辿ることはできないので、ひとまず残堀川に沿って昭和記念公園へと向かってみる。残堀川はところどころ水がたまっている他は枯れ川となっているが、これは度重なる改修工事の結果川底が透水層に達してしまい、水が底抜けしてしまったり、伏流水になってしまているためだという。

(以下次回)