前回の本宿用水新田堀の記事に続き、今回は同じ本宿・四谷用水(西府用水)のうち、四谷用水の下流部を追ってみよう。前回から一転し、今回は暗渠が中心となる。
前回も記したように、かつての多摩川の氾濫原であった立川段丘下の低地には、かつての多摩川流路跡の微低地などを利用しながら網の目のように水路が巡らされている。国立市南部と府中市中南部を潤す府中用水、そして府中市西南部を流れる本宿・四谷用水(西府用水)。いずれも現在も稲作に利用されている現役の農業用水だ。
府中市の資料(※)には一帯の用水路のルートが細かく記されている。しかし、それらは主要ルートに過ぎず、実際に現地で確かめるとその数倍もの水路があることがわかる。そして資料は30年以上のものであり、その後の都市化や区画整理、大きな道路の開通などにより記載の流路にも改廃が発生している。(※「府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前」1985年)
下の地図は資料に掲載されている用水路をオレンジのマーカーで、実際に現地調査で確認した水路(開渠・暗渠)もしくは水路跡を、四谷用水系を緑、府中用水新田川系をオレンジ細線で記している。いかに多くの水路があるかがわかるだろう。
そして明るい緑で塗りつぶしてあるところが今年の夏に水が張られていた水田だ(こちらも現地確認した範囲なので、多少漏れがあるかもしれないが)。宅地化の進行や畑作への転換で、水田は年を追うごとに少なくなってきており、西府用水組合でいうと2004年に29haあったのが、2013年のデータには22.4haと、9年間で2割以上の減少となっている。それでも四谷や住吉地区の四谷用水系沿いには今でも水田が点在しているが、新府中街道より東側に抜けるとほとんどないことがわかる。四谷用水でみると、その緑色の系統が収束する地点である南町4-30に唯一、水田が残っている(水色の丸で囲った、地図A及びaの地点)。
水田は2本の用水路に挟まれ、たっぷりと水が供給されている。傍らには水田を借景にした船のような形の低層マンションが建っている。北側を流れる水路は水面が見え(下の写真)、南側を流れる水路は暗渠だが水田へ水を導く口が設けられている(写真は後に掲載)
2つの水路に流れる水は、一体どのような経路を通ってきているのだろうか。周囲には用水路がいくつか流れているが、それらはほとんどの区間で蓋がされ暗渠となっている。中には道路の歩道の下に隠れてよくわからない区間もある。これらの中には現在は用水路として使われておらず水が流されていなかったり、放棄されて空き地となっているだけのところもある。そして、現役の暗渠も稲刈りの後田植えまで、つまり秋から春先までは通水が止められていて、利用されなくなった暗渠と区別がつかない。それを見分けるには夏の間、開渠区間や暗渠の蓋の隙間から、水が流れているかどうかを確認しながら追うことが必要だ。というわけで一つ一つ水路をたどり、暗渠に設けられた柵や隙間から、水が流れているか見て回った。
水路が複雑なので、上の地図画像を別ウィンドウで開いて地点を参照しながら読んでいただくとわかりやすいかもしれない。
◾️北側の水路
水田エリアの入り口となるB地点より上流は水路は暗渠となっている。写真左側にはここで合流する水路があったが現在は埋め立てられ空き地や道路となっており、暗渠の方から水が来ているのは明らかだ。柵の中を水が流れるのも見える。
暗渠の上は通れないので回り込み、C地点へ。ここでは池の川からの流れ(右側)と中河原大堀方面(左側)からの流れが合流している。またかつては府中わかば幼稚園方面への流れが分岐していたが、埋め立てられていた。そして暗渠蓋の隙間を覗き込むと、池の川からの流れは通水がないことがわかった。中河原大堀方面からは水が音を立てて流れている。
住宅地の隙間を縫って暗渠は多摩川の水を運ぶ。
地図D地点。下河原大堀方面からの流れ(右)と中河原大堀方面からの流れ(左)が合流し、右手前へと流れている。左手前に伸びる柵の間のわずかな隙間は、B地点で合流していた水路の跡だ。さて、水はどうなっているか。近寄れないのでまた迂回し2つの流れを上流側で確認する。
E地点の水路。「用水」と記された鉄蓋もありしっかりした暗渠だが、柵となっている部分から水路を覗くと、カラカラに乾いている。つまり、中河原大堀からは水は来ていない。とすると下河原大堀方面からの流れから水が来ていることになる。
少し引き返してF地点。水が流れているであろう下河原大堀方面からの暗渠が道路を横切る。E地点の暗渠に比べかなり細いが、本当に流れているのか。
迂回しながら暗渠を追っていくと、京王線の北側に出る(G地点)。線路をくぐりぬけて来たところで、たっぷりの水を確認することができる。
H地点。どう見ても道路の側溝としか思えないが、隙間から覗くと水が勢いよく流れている。
I地点でようやく水路が姿を現す。
水路は一旦暗渠になるが、新府中街道を越えた裏手で、再び姿を現す(J地点)。これより上流は下河原大堀と呼ばれる水路となっている。手前に向かって水路敷が扇型に広がっているが、これはかつて左方向に水路が分かれていたからで、現在は塞がれている。そしてそちらが資料では本来の下河原大堀となっている。つまり、下河原大堀はここより下流は廃止され、今ではここまで辿って来たルートにその水の末端を流しているということになる。
水田の脇を下河原大堀の水路が抜けていく(K地点)。これより上流、水路は再び暗渠に、そしてさらに開渠へと戻って中河原大堀との分岐地点に至る。それよりさらに上流は「四谷用水大堀」と呼ばれる区間となる。
いったん、ここまでで判明した水の経路を地図に記しておこう。水色が水が流れているルート、×印がつけてある水路は今は水が流れていないところだ。参考にしやすいよう、次の章のエリアも含めてある。
◾️南側の水路
次に水田の南側を通っている暗渠の水がどこから来るか遡って探ってみよう。こちらの水路は資料によれば下河原大堀の下流にあたり「南堀」と呼ばれた水路だ。
遡っていくと、水田の側と同じ、白い鉄板の蓋や柵のふたがされた状態が続いている。畑の傍の木陰を流れる水路はかつては前回の記事に載せた本宿用水新田堀の分流のように、水田の傍を流れる素掘りの水路だったのだろう(b地点)。
c地点で、コンクリートの重そうな蓋がかかる水路を分ける。こちらは北側水路で確認した涸れた水路(E地点)へと続く。ここで分岐地点の蓋の隙間を覗き込んでも、やはりE地点方面には全く水が流れていないことがわかる。
さて、鉄蓋の下の流れはc地点よりやや上流で、下河原大堀からの流れと、中河原大堀の分流の流れが合流している。こちらも暗渠上は辿れないので回り込み確認することとなる。北側水路J地点で確認したように、下河原大堀の最下流部は現在水が流されていない。その流れを念のため確認すると、中川原駅南側に、雑草に埋もれた梁のわたされた水路が残っていた(d地点)。
では中河原大堀方面から来る流路はどうか。e地点では「用排水路につき通行はご遠慮ください」と看板の立てられた水路が確認できる。しかし暗渠上は雑草に覆われ、とても水が流れているように見えない。
しかし、本来の中河原大堀を暗渠化した路地を辿って、分岐地点まで来てみると(f地点)、暗渠は白い鉄板の蓋を露わにし、柵から覗き込むと水がたっぷりと流れている。そして本来の中河原大堀方面(右側)には水は全く流されていないことがわかる。下河原大堀と同じくこちらも流末で水の流れが変えられているということだ。
中河原駅駅舎から流れ来る中河原大堀の暗渠(g地点)。大堀というには細い路地だ。そして駅への抜け道となっていて絶え間無く人が行き交う。写真を撮っていると近所に住んでいるというご婦人から声をかけられた。平成に入る頃までは水路が見えていたこと、息子さんが何度もその水路に落ちたこと、周囲は水田だったことなど、貴重なお話を伺えた。
中河原駅の北側では、中河原大堀は四谷通りの歩道を暗渠となって流れているという(h地点)。写真右側の歩道のはずだが、一見ただの歩道にしか見え図、本当にここを水が流れているのか、疑心暗鬼になる。
しかし路上には2箇所ほど点検用か何かの鉄蓋があって、中を見ると水がしっかり流れていた。(i地点)
そして暗渠はやがて四谷通りからそれ、中の水路が姿を現す(j地点)。
姿を現した中河原大堀。水路沿いには水田が広がる(k地点)。水田の反対側には先ほど遡った下河原大堀の分流(開渠)と本流(暗渠)が並行して流れている。
それぞれの水路をもう少し遡りたいところだが、図版の点数がだいぶ多くなってしまったため今回はここまで。最後に今回辿った2つの水の流れを、関連する周辺の水路も含めて図に記してみよう。水色が現在水が流れている区間、ピンクが現在は通水されていなかったり、廃止された区間だ。緑は最初の地図に示した通り、今年水を張っていた水田。こうしてみると、水が流れなくなった区間も多いが、現在水田が残っているところには確実に水が行き渡るように通水されていることがわかる。そして下河原大堀も、中河原大堀もその流末の水の行く末は現在の土地利用状況に対応するように、変えられていることがわかる。
都心部と違って、現役の暗渠と引退した暗渠が混在するエリアならではの、ちょっとした水をめぐる探索、如何だったろうか。