二十年ちょっと前の個人的な話をひとつ。学生だった時分、京王井の頭線の終点近くである久我山駅、三鷹台駅、井の頭公園駅といった辺りに、地方から出てきた同級生たちが幾人か、一人暮らしの住まいを借りていた。特に三鷹台のとあるワンルームマンションには、クラスメイト2人が別フロアに暮らしていて、学園祭の準備のときとか、終電を逃したときとかの皆の拠点となっていた。私もほかのクラスメイトたちとともに幾度となく出入りし、8mm映画を撮影したときには、ロケ地やアフレコ場所として使わせてもらったりもした。
彼らの住むマンションの北側は数メートルの擁壁となっていて、その下には暗渠の細い道が東西に通っていた。暗渠を西へ進むと階段があって、登ると三鷹台の駅前通りが南北に抜けていた。彼らの部屋に行くとき、そして帰るときには、必ずこの階段を昇り降りして暗渠を抜けていった。階段の下はかつて川だったのだ、この道は「暗渠」なのだ、ということを一緒に昇り降りした同級生たちに話したのかどうだったか。今なら話したかもしれないが、当時は自分の中に留めていたような気がする。
専門課程に進みクラスが分解すると、次第に彼らの部屋を訪れることも減り、インターネットはおろか携帯電話もまだ普及し始めたばかりの時代だから、卒業後は次第に疎遠になって、連絡もとれなくなっていき、大部分の消息は今ではわからなくなってしまった。マンションに暮らしていた同級生は今、どこで何をしているのだろうか。
よく晴れた初夏の朝、ふと思い立って三鷹台の駅に降り立ち、かつて通った暗渠を訪れてみた。ゆるやかな上り坂となっている駅前通りを南へ数分進むと、右手に雑草の生える、少し凹んだ細長い空き地が見える。二十数年前と変わらない、川跡の風景だ。
通りの左手には、こちらも変わらない、暗渠へ下る階段があった。
階段の方がかつての川の下流となるが、まずは右手未舗装の川跡を上流に向かってみることにした。定期的に草刈りを行っているのか、雑草は短く、容易に通り抜けられる。右側の大谷石の護岸は水路があった頃からのものだろうか。
車道をひとつ横切って、その先にさらに未舗装の川跡は続く。当時は車止めの前を通り過ぎるだけだったが、思い切って足を踏み入れてみる。
送電線と勢いのある植物の緑、そして柑橘類の橙色の実が、初夏らしさを漂わせる。防災時井戸の看板があったりして公共用地であることは明白なのだが、それでも奥に進むほど、川跡沿いの家々の私的空間が気配として浸透していて、行き止まりとなる少しだけ手前で水路跡の追跡はやめておいた。
この辺りがこの小川の源流だったのだろう。ただ、周囲より低地にはなってはいるものの明確な谷頭地形だったりするわけではなく、はっきりとした湧水というよりは、じわじわと水が染み出るような水源だったのだろう。
通りまで戻り、いよいよ下流側へと進んでみることにした。階段を降り振り返ると、そこには懐かしい20数年前の風景があった。右手の木もそのままだ。多愛のない、意味のない会話を交わしながら何度この階段を上り下りしたことだろう。
階段を降りてしばらく、どことなく長閑な住宅地の中を抜けていく。
やがて暗渠は谷の南側の縁を流れるようになる。立派な擁壁の上を見上げると、2人の同級生が住んでいた細長い3階建のワンルームマンションが、やや古びてはいたものの当時のままに残っていた。台地の上にあがり、玄関先まで立ち寄ってみる。玄関の脇の屋根付き飲料自動販売機は、最新の機種に入れ替わっている。居ないことを確認するかのように、集合ポストに並ぶ名札をざっと眺めてみる。やはり当然ではあるが彼らの名前はない。
谷筋の暗渠の路上へと戻る。記憶よりもずいぶんと明るく、そして道幅も広い。少し進むと、暗渠上にぽつりとベンチが置かれていた。路上の舗装と同じ赤茶色の座面。背もたれに印された「you are not alone」の文字は、暗渠を歩む者に何かを暗示しているかのようだ。
擁壁の区間を通り過ぎ、当時はあまり通ることがなかった久我山方面へと暗渠を下っていく。しばらく曲がりくねった路地が続く。明治から戦前にかけての各地図をみると、川沿いには畑が広がっていたようだ。一応谷戸地形ではあるのだが、水田にするには川の水量が少なかったのだろう。
暗渠の南側の台地の上には玉川上水が流れている。現在の地名は暗渠沿いは三鷹市井の頭1丁目となっているが、かつては上水の南側と同じく牟礼に属し、字名は玉川通東であった。
やがて暗渠沿いの旧字名は神田川東通に変わる。小公園を過ぎた先には暗渠上に階段が現れる。通常は道路などからの段差を階段で上る場合が多いのだが、ここは暗渠化後、路上に盛り土をしたのか、交差する道路に下っていくかたちとなっている。この辺りは急な流れだったようで、階段の先に見える暗渠も、ここまでよりも傾斜を増している。水量があれば水車が架かっていたような流れだったのだろう。
両岸を擁壁に囲まれ、路面も下り坂となっていて、だいぶ渓谷感のある暗渠を下っていく。道は蛇行し、見通しはない。家々は背を向けており、暗渠度を高めている。車止めはシンプルな1本棒だ。
しばらく進んでいくと、路面の傾斜はなくなり、谷底に降りきった感じとなる。暗渠の幅もやや広くなる。擁壁には水抜きの穴が並ぶ。
古そうなコンクリートの擁壁に空く、排水管の穴。かつて水路に直接排水を落としていた痕跡だろうか。
周囲の下水の中継地点である「井の頭ポンプ場」を過ぎると暗渠路地は普通の道路に合流する。この辺りになると、暗渠の流れる小さな谷は、より大きな神田川の谷にひらけて、なくなる。
暫く進むと暗渠は三鷹市から杉並区に入り、神田川の旧水路(蛇行の跡)に合流して終わった(写真左の木の繁みの辺り)。現在の神田川沿いには直接の痕跡はないが、神田川旧水路の合流口が神田川の護岸に口を開けていた。
暗渠は神田川に合流する直前、杉並区との境目で、右手に水路を分けている。この水路は神田川の南側を並行して流れ、神田川の「上げ堀」に接続していた。引き返してこちらの水路を上げ堀まで辿ってみることにした。
水路といっても当然暗渠なのだが、車止めにはしっかり「水路内にバイクを乗り入れないでください」と記されている。ここはあくまでも「水路」なのだという、毅然とした主張。
神田川沿いには戦後しばらくまで、両岸に水田が連なっていた。それらに水を引き入れるために、神田川の両側には川から水を分け平行していわゆる上げ堀が流れていた。この「水路」は神田川の南側に沿った水田の縁を流れており、上げ堀の機能も果たしていたのだろう。暗渠左側がかつての水田で、右側は少しだけ小高くなっていて、畑地として利用されていたようだ。
再び「水路内にバイクを」の車止めが現れ、この暗渠はいったん終わる。両端を「水路」と記された車止めで蓋され、両岸は畦道の代わりに塀や家々で挟み込まれた、水のない水路。nullな空間。
水路はここで、神田川の緑橋付近に設けられていた「大熊堰」から分流された上げ堀に合流していた。上げ堀は左側にある神田川から、車止めの向こう側の砂利道を通って奥の緑の繁みの方へと流れていたという。
繁みを下流方向に回りこむと、袋小路の奥に、コンクリートのU字溝ではあるものの、一応開渠として涸れた水路がひっそりと残っていた。水の湧くような地形でもないから、偶然の積み重ねで偶々残されたのだろう。
下流側を振り返ると、水路の続きが雑草の生える空き地となって残っている。シンメトリックなブロック塀のもたらす遠近感が、ここが忘れられ取り残された空間であることを際立たせる。ただ、そこに漂う空気感は淡く柔かく、暖かみがあるようにも思われる。
水路跡は100mほど続いて人見街道の旧道に突き当たり、唐突に消える。右に進むと神田川にかかる宮下橋だ。渡ったその先、谷戸を登った台地の上には久我山稲荷神社が鎮座する。水路はここよりやや下流で神田川に合流していたようだ。
ここから人見街道沿いを西に向かったところにはやはり二十数年前に別の友人が住んでいて、この水路跡も何度か横切っているはずだ。当時は三鷹台の同級生の家の前の暗渠がここまで繋がっていることには気がついていなかったように思う。
神田川の切り立った護岸沿いに設けられた歩道を数分あるけば、そこは井の頭線の久我山駅だ。駅は高架化されてかつてとだいぶ様子が変わっていたが、川と人見街道に挟まれた三角形の土地にたつサミットスーパーはかつてのままに営業していた。
暗渠沿いの彼らの部屋で交わし合った言葉や移ろっていったそれぞれの感情。今となっては、それらの何ひとつとして、はっきりとしたことは思い出せない。ただ夜明け前の薄明かりのような、薄曇りのひだまりのような、ぼんやりとしたモノクロームの記憶が心の奥底に眠っている。暗渠を歩くことでそれらを少しは掬い上げられたのだろうか。
「いつの日か長い時間の記憶は消えて、優しさを僕らはただ抱きしめるのか」
そんな、当時の歌の一節を思い出しながら、渋谷行きの急行電車に乗って街を離れた。