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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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今回は、三鷹市新川の品川用水と仙川用水(いわゆる「入間川養水」のルート)の分岐点から辿って行こう。今回取り上げる区間は下の地図で矢印で示した区間(google mapにプロットのうえキャプチャ)。黄緑のラインが仙川用水・品川用水に関連する水路だ。ここに、仙川(青緑のライン)や梶野新田用水野崎支線(水色のライン)が複雑に絡まっている。流域全体の地図については前回の記事を参照していただきたい。
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品川用水と分かれた仙川用水(入間川養水ルート)は、人見街道までの僅かな区間だけは、車止めに仕切られ舗装の色を変えた、暗渠や川跡によくあるような姿となっている。
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仙川の谷を越える築堤

人見街道を越えると水路跡は普通の道となって、新川の交差点の東~南を回りこみ、西へ向きを変える。そして、現在仙川が流れている谷を横切っていく。谷をまたぐ区間はかつては築堤が築かれていて、水路はその上を西に向かって流れていた。仙川に至る手前には新川児童遊園があり窪地となっている(写真右側)が、水路はこの窪地ではなく少し高くなっている道路のところを通っていた。
築堤はかなりの高さと幅があったようだ。武蔵野市史には、南側からみると二十数尺の高さ(6m以上)があったと記されている。また、築堤があった当時の地形図から判断すると、水路両岸の土手もかなりの幅と高さが取られていたようで、水路の水面よりもかなり高く築堤を築いた上で、そこに深い溝をつくって水路を通していたように見える。土地条件図では仙川沿いの谷は埋め立てられているように記されており、築堤の土手が削られ谷が埋めたてられたことで、現在はそこまでは高低差がないのだろう。
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新川児童遊園の西端で流路跡の道は仙川を渡る。車道側の橋には「長久保一之橋」とあるのだが、上流側(歩道側)にはもうひとつ名前のない橋が掛っていて、高さが異なっている。これはかつての築堤と関係あるのかもしれない。仙川用水を暗渠化・道路化した際に多少築堤が削られてこの橋が架けられ、その後さらに土手が削られて道路が拡幅され、橋だけがもとの高さで残ったのではないだろうか。
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橋の上から仙川の上流方向を眺めると、人見街道に架かる野川宿橋が見え、その下から川が急に太くなっているのがわかる。野川宿橋より上流側はほとんど水が流れておらず、カミソリ護岸の狭く深い水路となっているが、橋の東側の袂からは、下流部で取水した地下水を流して、川の流れを復活させている。こちらについては次回詳しく紹介する。
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仙川上流部の開削時期

かつて仙川はここより1kmほど下流の勝渕神社付近を源流としており、それより上流の水路はあとから開削されたと言われている。仙川用水が通っていた築堤の下の谷筋には、それまでは仙川は流れていなかったことになる。
「世田谷の河川と用水」には1950〜51年に上流部が開削とあるが、1935年頃の地籍図や1947年撮影の空中写真には、築堤より南側には水路がみえる。築堤北側の窪地は戦前は「ハキボリ」と呼ばれる湿地だったというが、おそらく「捌き堀」の意だろう。そこから築堤を潜って南側に排水する水路があったのだろうか。そして、築堤より上流の水路は、1947年7月の航空写真には影も形も見えず、一方1948年3月の航空写真には現在と同じルートの水路がはっきりと見えることから、少なくともこの近辺では1947年夏から1948年春の間に開削されたことになる。

一方で、中央線の武蔵境駅付近より北側の水路は、それより前から存在していたようだ。江戸時代に開削された小金井分水や梶野新田分水から分岐した何本かの用水路の流末もこの水路につながっていることからも、その古さが伺える。小金井市誌によれば、現在の仙川は「長窪の水流」と呼ばれる悪水路で、大雨のたびにあふれていた。梶野新田分水が仙川の上を越える築堤が今でも残っているが、悪水路の氾濫で度々この築堤が破壊されたという。
一方で、境村(現武蔵野市境)では、水害を避けるためにこの悪水路(=現在の仙川)の流れる谷に3箇所にわたり厳重に築堤を築き、それより下流側の窪地に水が来ないようにしていたという。この築堤を巡って宝暦から明和にかけて梶野新田と堺村の間で争いが起こり、1754(宝暦4)年には「悪水堀築留取払いお願いの状」が出されている。
この仙川上流部の流路については武蔵野市史でも、低地帯にある昔からの出水路で、普段は枯渇していて降雨の後数日は水が流れたとし、砂漠の「ワジ」に例えられている。また、1919年(大正8)刊行の5万分の1東京西北部や1931(昭和6)年刊行の最新番地入東京郊外地図でも、小金井付近から武蔵境駅以北の区間までは水路が描かれていて、少なくとも江戸期から戦前に至るまで継続して水路が存在していたことがうかがわれる。
これらの事実から判断すると、人口的に開削されたとされる仙川上流部は、上流部から武蔵境付近までは悪水路として存在していたことは間違いない。そしてそこは降雨時のみ水が流れる、いわゆる「シマッポ」「マツバ」のような水路で、余程のことが無い限りは武蔵境付近より下流は伏流水として地中に消えていたのだろう。伏流水の区間はその後の開発に伴い、排水対策として1948年ころにしっかりした水路を開削して、仙川につなげたのだろう。(※「シマッポ」については白子川上流部の記事参照)。
なお、水路が開削され仙川につながった後も、勝渕神社より上流部はしばらくは仙川とは別扱いだったようだ(武蔵野市内では「武蔵川」として管理されていた)。全区間が「仙川」として管理されるようになったのは1964年のことだという。
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築堤がもたらした大浸水

境村に築かれていた築堤がどうなったのかは不明だが、仙川用水の築堤も谷をダムのように塞いでいることから、仙川上流部が開削される以前は大雨が降るとその上流側にあたる人見街道沿いが水浸しになったという。戦前の出水時の写真には、一帯が湖のようになって人々が舟で行き来する様子が写っており、おそらく1941年7月の水害の時のものと思われる。この水害は記録的なものだったという。7日間に続く豪雨の影響で中央線の北側では現在仙川上流部が流れる谷に沿って、長さ3km、幅が最大で200mにわたって湖のようになり、水深は深い所で4mにもなったという。そして三鷹町内でも仙川用水築堤の北側で、人見街道に沿って出水した。「三鷹の民俗6 下連雀」では、下連雀の子供たちが現三鷹市立第一小学校に通うため、井の頭公園の池からボートを5、6艘借りてきたことが記されている。
この築堤を巡っては、水浸しになって困る上流側と、逆に水が来られると被害を被る下流側で度々争いが起こったと伝えられている。「三鷹の民俗6 下連雀」では、仙川用水の土手が水を止めるため大雨の際に水浸しになること、新川の人が土手を切らせないために夜警を出し、けんかになったこともあったと記している。これは仙川沿いの水田への被害阻止を巡る攻防だろう。
また、「深大寺用水私考」には、「三鷹の新川の方の土手は、雨が降ると水が溢れて地元が困るので土手を切る。土手を切られると金子に田のあった内野氏などは、逆に水がきて困るので、土手を切られないように見張りにいったという」といった聞き書きが記されている。仙川用水の築堤を普通にをまるごと切ってしまうとその水は仙川方面に流れるので金子村方面には水は行かないし、仙川用水自体が使い物にならなくなってしまう。ここで言っているのは築堤上の仙川用水を挟む土手のうち、北側を切って、築堤の北側に溜まった水を仙川用水に逃すということではないかと思われる。

そんな築堤も今では撤去され、仙川も改修により深く掘り下げられて、このような水害が起こることはなくなった。
橋を渡ると道路に沿って右手(北側)に小高くなった細長い緑地帯があり、かつての築堤の名残を留めている。
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築堤の西端付近から仙川の谷を振り返ると、今でも高低差があることが分かる。水路は写真中央のコンクリート擁壁の上を中央から左手に抜けていた。
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ここで仙川の谷を渡りきった仙川用水は、今度は長久保と呼ばれる窪地を避けるようにその縁を西〜南へと向きを変えて進む。水路跡の道路の南側、数メートル段差のある窪地が長久保で、現在では農業公園とJA東京むさし三鷹緑化センターが設けられている。
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そしてここで仙川用水は「梶野新田用水野崎支線」と交差していた。仙川用水の北側には高低差がないため、どのようにして交差していたのか不明だが、おそらく野崎支線の方を掘り下げて仙川用水の下を抜け、長久保に出ていたのではないか。流路の跡は現在、農業公園と住宅地の境界線として残っている.下の写真は仙川用水と野崎支線が交差していた地点。手前の道路のところを仙川用水が左から右に流れており、青緑のフェンスのところを右手前から左奥に向かって野崎支線が流れていた。フェンスの裏側が長久保の低地で、2〜3mほどの高低差がある。
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梶野新田用水野崎支線

「梶野新田用水」は今まで取り上げてきた深大寺用水の母体となった玉川上水の分水で、基本的には新田集落の飲用水として開削された。その開削時期は1734(享保19)年頃とされる。小金井で分けられた水路は「梶野新田外五ケ村呑用水組合」に属する梶野新田、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田、野崎新田を経由し、上仙川村に至っていた。上仙川村だけは灌漑用としての利用だったという。余水は仙川源流一帯の水田を巡る用水路に落とされていた。1825年の記録では「上仙川村畑直り新田用水」として「上仙川村本田用水」への助水も行なっていたとあるが、これは仙川もしくは仙川用水の"野川分水口ルート"を指すと思われる。1871(明治4)年に深大寺用水が開通して以降は、野崎から下仙川に至る水路は支流扱いとなったようで、「三鷹市史」(1970)によれば、戦後作成された「砂川用水実態図」には、野崎支線と記されているという。
梶野新田用水野崎支線は三鷹市野崎の交差点からしばらく人見街道に沿って流れたのち、現在の三鷹市役所付近で向きを変えて南東南東に直線に流れ、仙川用水をくぐり現在の仙川の上仙川橋付近で仙川用水野川分水口ルートの水路と合流したのち、勝渕神社方面に流れていた。
流路が複雑に交錯しているので、再度地図を掲載しよう。
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流路跡自体は全く残っていないが、上仙川橋付近までは土地区画の境界線として辿ることができる。また、上仙川橋より下流部はそのまま現在の仙川の流れと一致する。航空写真(google mapよりキャプチャ)の上は三鷹市役所の東側、下は仙川用水との交差地点付近。野崎支線の水路跡(水色のライン)がそのまま土地の区界となっていることがよくわかる。
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梶野新田用水野崎支線はいつ頃まで水が流れていたのだろうか。「三鷹の民俗10 新川」には玉川上水から新川の水田に至る2本の用水路として、ひとつは前回とりあげた仙川用水のの"野川分水口ルート"、もうひとつは「K家の方(から、新川本村の田の)西側にくる」ともある。K家の屋敷はかつて仙川用水と野崎支線が交差する地点の東側にあったことから、ここでのもうひとつの用水路が「梶野新田分水野崎支線」を指していると思われる。この記述は聞き書きをベースにしており、おそらく昭和初期の様子と思われる。ただ、1935(昭和10)年の地籍図にはすでに野崎支線の記載はない。一方で先に記したように戦後作成されたという「砂川用水実態図」には記載があるといい、1948年の航空写真でもそのルートははっきりと写っている。

JAの裏手で、仙川用水跡は再び車止めに遮られた暗渠らしい道となる。
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カーブを描いて南へと向きを変えていく。
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東八道路につきあたったところで水路跡は姿を消す。かつてはこの先、海上技術安全研究所の中へと続いていた。品川用水との分岐点から海上技術安全研究所に入るまでの区間は、仙川用水・品川用水の中でも最後まで水路が残っていた区間のようだ。住宅地図でその変遷を追う限りは、1976年ころまでは開渠として残っており、その後段階的に暗渠化が進み、最後まで残ったJAの北側の区間は1986年の地図で姿を消している。ただし、情報の更新にタイムラグはあって、実際にはもう少し早い時期に無くなっていたかもしれない。
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海上技術安全研究所を抜ける仙川用水と明治20年代開削説

海上技術安全研究所の構内に入った仙川用水は、三鷹市と調布市の境界に突き当たったのち、その境界にそってほぼまっすぐに、南南東に下って行っていた。この境界線は、かつての鎌倉街道でもあった。現在では水路の痕跡はほとんど残っていないようだが、鎌倉街道に沿った並木が続いていて水路のルートも示しているかたちとなっている。

ただ、海洋技術研究所の前身である中央航空研究所が作られた1940年頃、構内の南半分はルートを変更した上、暗渠化された。そして1958年には新たに造成された実験用プールを迂回するため北半分もルートが変更され、海洋技術研究所内の仙川用水は、実際には鎌倉街道沿いとは離れた場所を流れるようになった。

さて、研究所内に残る鎌倉街道跡沿いには、「仙川分水」の解説板が設置されているようだ。今回の取材で見学することはできなかったが、研究所のウェブサイトにその写真と、解説板に記された文章が掲載されている。そこには仙川分水は明治20年代に開削されたと書かれている。仙川用水に関する情報が皆無に近いためか、あるいは公的機関に掲示された解説板であるためか、この明治20年代開削説はネットを中心に各所で引用されている。これは一方で、仙川用水が品川用水よりも古い、江戸前期に開削されたということと矛盾するため、今まで個人的に謎であった。今回の調査で、この解説板の設置経緯と、情報の出所が明らかになった。結論から言えば、この明治20年代開削説はおそらく誤りであろう。
情報の出どころは、研究所内で刊行されていた、社内報のような刊行物「雑木林 」で1979年9月に刊行された23号を始め、何回かにわたって仙川用水と鎌倉街道のことが取り上げられている。ここで、仙川用水に関する公的な記録は1962年ころに「砂川水利組合」(砂川用水の水利組合か、あるいは品川用水の聞き間違いか不明)に一括譲渡されてしまい、三鷹市には一切何も残っていないこと、市の市民相談室職員の説として、仙川分水が明治20年代から30年代にかけて開削されたのではないかと述べていることが記されている。そしてその根拠は仙川用水が明治13年の地図には載っておらず、明治40年代の地図には掲載されていることだとしている。つまり、なにか文献に基づくものではなく、地図からの推測である。
ここで言われている明治13年の地図とは2万分の1縮尺の「東京近傍図 :東京近傍西部」(明治13年測量19年製版)、明治40年代の地図は5万分の1地形図「東京西北部」(明治42年測量)だと思われる。確かに前者には仙川用水のルートは描かれていない。しかし、東京近傍図にはほかにも入間川など描かれていない川や用水路も数多く有り、これを根拠にすることはできない。

前回記事でも記したように、仙川用水の入間川養水ルートは江戸期から存在し、江戸時代後期や末期の記録にも残っていることから、一時的なものならともかく、長期にわたって断絶した期間があるとも考えにくい。そして明治20年代説の直近で言えば、明治16年時点で、品川用水からの各村ごとの寸積(分水量)として以下の記録が残っている。

[字稲荷前口から=入間川養水ルート] 新川村:3坪5合2勺、中仙川村:3坪1合4勺、金子村:1坪5合3勺、大町村:1坪5合4勺
[野川分水口から] 新川村:6合9勺

新川村は1874年に野川村と上仙川村が合併してできた村だ。このことひとつをとってみても、明治20年以降ではないことがわかる。
ちなみにここで注意すべきは、入間川養水ルートにも新川村=旧上仙川村の水利権があるということだ。そして中仙川村以上の水利権が確保されていて、これが水田用であることが伺われる。一方で入間川養水ルート〜入間川沿いには旧上仙川村の水田はない。水田があるのは仙川沿いだ。つまり、入間川養水から旧上仙川村エリア=仙川流域に向かって分水路が引かれていたことになる。この分水路については次回に詳しく記そう。

明治20年代開削説はこのようにおそらく間違いなのだが、上記の「雑木林」の続く号では、鎌倉街道と仙川用水の保全の働きかけ、その結果としての解説板の設置といった経緯が記されている。解説文が参考にしたのは当然ながら「雑木林」での記述だった。その結果、明治20年代説がひとり歩きするようになったようだ。1980年代の三鷹市の広報紙でもこの説が採用されており、仙川用水を巡る情報が錯綜していく一因となったと思われる。

敷地内に残る鎌倉街道跡の並木道を塀越しに眺めてみる。水路の跡はなさそうだ。
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船舶技術研究所を抜けた仙川用水跡/鎌倉街道はいったん普通の車道となる。この近辺にも70年代まで開渠が残っていたそうだ。
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そして100mほど南下すると、今度は消防大学校の敷地に突き当たる。敷地の北側を横切る歩道にはなぜか水路の流れていたルートにそって斜めに敷石のようなものが埋められていた。
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消防大学校

消防大学校の中もひきつづき仙川用水跡/鎌倉街道は三鷹市と調布市の境目となって南南東に下っていく。こちらの敷地内にも街道沿いの並木が保存されている。その入口は遊歩道風となっていて、やはり解説板が設置されていた。守衛さんに頼んで入り口だけ撮影させてもらった。鎌倉街道を辿ってくる人は時々訪れるというが、用水路を辿ってくる人はいないようだ。
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構内図には街道跡を示す並木が描かれている(2列に連なる緑の点)。
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かつてこの敷地内で、先程ふれた仙川流域の水田へと向かう分水路が分かれていた。長くなったので、以降は次回の記事としよう。

(つづく)

※参考文献リストはシリーズの最後にまとめて掲載します。
by tokyoriver | 2012-03-22 23:33 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
前回に引き続き深大寺用水西堀3回目の記事。最後となる今回は甲州街道以南、野川に合流するまでの区間をとりあげる。まずは地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。青い線と黄緑の線で用水路、紫色と水色の線で自然河川を示している。たくさん水路があるように見えるが、野川と、入間川の甲州街道以南の区間以外は全て現存せず、暗渠化されているか、埋め立てられている。
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深大寺用水西堀は、甲州街道の南側からコンクリートの蓋がけ暗渠となっている。暗渠沿いには植え込みが設けられ「菊野台緑道」といった名前もつけられているようだ。
途中からは、前回記事最後にとりあげた厳島神社からの流れと合流する。そちらは普通の舗装された道となっていて、一見水路跡とはわからない。この辺りより下流は、厳島神社からの川(かんがい用水)をそのまま利用している(地図で紫色となっている区間)。東堀の記事でも触れたように、甲州街道南側には西堀と東堀の間に網目状に水路が分かれて流れているが、これらは深大寺用水開通以前からすでに存在していた。それらは17世紀後半に開削された仙川用水(上仙川、中仙川、金子、大町四ケ村用水)の末流にあたる。深大寺用水東堀はその水路を利用している(地図で黄緑色となっている区間)。
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やがて暗渠は、緑道からガードレール付の歩道に変わる。護岸のあったところにそのまま蓋をしているせいか、並行する路面より高くなっている。橋のような痕跡もある。水路の左岸側(東側)は、かつての字名を曲田といい、東堀との間に水田が細長く伸びていた。(写真は上流方向を振り返った様子)。
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しばらく行くと、京王線の線路につきあたる。水路はそのまま線路の下を抜けているようだが、踏切も何もないので、反対側(南側)にはぐるっと迂回してまわりこむこととなる。
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線路の反対側は、周囲が空き地になっていて鄙びた雰囲気だ。
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暗渠上、線路際に設けられたマンホールには「うすい」の文字。雨水幹線として扱われているのだろう。
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夏は両脇は雑草が生い茂っている。周囲の緑がかつての水路の様子を偲ばせる。
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その先は、S字に蛇行しながら蓋暗渠が続いている。こちらは菊野台第2緑道と名付けられている。
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両岸の植え込みはそれなりに手入れされている。暗渠上には所々に鉄蓋があった。こっそり開けてみたが、水路に水は流れておらず乾いていた。
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深大寺用水西堀は、京王線の南側から、深大寺用水東堀の分流「大町堀」と40mほど離れて並行して流れていく。2つの水路の間は線路の北側からつづく、字「曲田」。その名の通り、流路にそって曲がった水田となっていた。この水田のところは金子村が大町村にプラグ状に食い込んだかたちとなっていた。
下の地図に、1955年ころの深大寺用水流域の水田と旧村名を示した。黄緑色に塗ったエリアが水田だった場所、黄緑色のラインは深大寺用水東堀(かつては仙川用水末流)の水系だ。この金子村の食い込みの他にも、深大寺村の飛び地がぽつりとあったりと、村々(神代村への統合後は大字か)の境界線はいりくんでいた。なお、西堀が京王線を越えたあたりから南西〜南に水路が分かれていたとの推測もあるようだが、そのような水路は資料や地籍図からは確認できない。地図からわかるように、大町村の水田は野川沿いに集中しており、そちらは野川から分水した通称「野川大町用水」を利用していた。地図では簡略化して記したが、実際には網の目状に水路が張り巡らされていた。野川沿いにいくつか口を開ける排水口はこの用水路の名残だ。こちらの水田には深大寺用水の水は一切引かれていなかったという。
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品川通りに出て緑道は終わり、そこから先は普通に暗渠としての道が続く。畑の脇を抜けたり、花が咲き乱れていたりと、すこし長閑になってくるが、周囲の宅地化はここ数年でも進んでいるようだ。
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旧大町小学校の脇からは車道沿いを敷地にそって流れていく。大町小学校は1999年に、隣接する野川小学校に併合して調和小学校となった。すぐそばには旧大町村の鎮守社である八剱神社がある。14世紀の創建で、御神体は十一面観音像と、神仏習合の名残がみられる珍しい事例となっている。深大寺用水西堀は柴崎村、金子村、大町村の3つの村の鎮守社のそばを通っていることになる(柴崎、金子は前回記事参照)。
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この区間は、コンクリート蓋の並びが綺麗で印象的だ。こちらは上流方向に振り返った様子。脇に隙間のあるタイプが連なる様は蛇や竜のようにも見える。
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隙間から見ると、中の水路は梁を渡したコンクリート枠の水路で、蓋のすぐぎりぎりまで幅があることがわかる。
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旧大町小学校敷地の南東側で、暗渠は急カーブを描いて北に向きを変える。
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そしてS字に曲がって再び向きを変えた後は、野川に向かって南下していく。かつてはここで、ここまで並行してきた大町堀と合流していたが、大町堀の方は今では痕跡がなくなっている。
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調和小学校と東電の変電所の間を南下していく。川沿いに花壇があって気分を和ませる。
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ここは水路ですという看板があった。不法工作物とは何なのだろう。
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小学校の敷地の南西側に至ると、目の前に野川の護岸が見えてくる。
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そして野川に合流。蓋暗渠にもかかわらず合流地点は円管となっていて、弁が設けられている。
先の地図にも記したように、この辺りには野川から引かれた野川大町用水ともいうべき水路が幾筋かにわかれて流れており、大町田んぼと呼ばれた水田を潤した後、一部は西堀末流に合流していた。
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以上で、9回にわたり取り上げてきた深大寺用水を辿り終えたことになる。深大寺用水が開通したのは1871年。そして上流部の砂川用水も含めた「砂川村他7ヶ村水利組合」が解散したのは1962年2月だ。その水路が利用されたのは100年にも満たないが、その短い間には、水を巡る切実なドラマが数多く紡がれてきた。組合が解散して今月でちょうど50年。水路の大部分は失われ、流域の風景も激変して、もはや深大寺用水を省みる人はほとんどいない。今残る蓋暗渠などの痕跡も、近い将来その姿を消し、水路を巡る記憶もまた忘れ去られていくのだろう。

最後におさらいで、梶野新田用水から分流して以降の、全体の地図を掲載しておく。
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深大寺用水本流の記事はこれでいったん終わりだが、次回からは、品川用水の前身であり、深大寺用水とも深い関係のある「仙川用水」の上流部、そして「入間川」の中流部以降の区間について、何回かに分け取り上げていく予定だ。今回、参照した文献も多岐に渡るので最後にそのリストも付け加えようと思う。今しばらくのお付き合いを。
by tokyoriver | 2012-02-22 23:33 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(7)
前回に引き続き、深大寺用水西堀を今度は甲州街道付近まで追っていく。まずは今回のとりあげる区間の地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。青い線(深大寺用水系といわゆる佐須用水系)と黄緑の線(もと仙川用水系)で用水路、紫色と水色の線で自然河川を示している。たくさん水路があるように見えるが、野川、マセ口川、逆川以外の水路は全て現存していない。台地上を流れていた深大寺用水西堀水路は、晃華学園の南側で国分寺崖線を下り野川沿いの低地に出ていた(前回記事最後)。
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神代中学校の南側から出てきた深大寺用水西堀は、上ノ原公園の南側を東に下っていく。ここでも斜面の下ではなく中腹を横切っているのがいかにも用水路らしい。このあたりから流域は旧佐須村エリアから柴崎村エリアへと変わる。
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公園の先に進むと、生コンクリート工場の裏手に未舗装の水路跡が残っていた。
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上流方向を振り返る。奥右手に見えるのが上ノ原公園だ。水路跡が現れる地点からは、かつては南(写真左方向)に、柴崎村内を南下し野川に注ぐ細い分流があった。水田用ではなく、生活用水として引かれていたという。
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車道が崖線を登っていくのに対し、水路跡はその下を進んでいく。
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工場の先、コープとうきょうの裏手からは、とうとう開渠が現れる。
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近寄ることはできないが、開渠の始まりの地点には土管が口を開けている。水は全く流れていない。
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開渠の水路はゆったりとカーブを描きつつ東へ流れていく。この深大寺用水全区間を通じて唯一水路の残る貴重な区間がなぜ残されているのかよくわからないが、おそらくたまたま、なのだろう。既に役割を終えたこの水路はきっとそう遠くない未来に、気がつかれないうちに消滅してしまうに違いない。
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下流側に迂回してみると、そこはすでにコンクリート蓋の暗渠になっていた。
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緑色のフェンスの奥が暗渠、奥に見えるのは柴崎稲荷神社だ。左手からやって来た暗渠はかつてここで、崖線の下をまっすぐに進む水路と、神社の参道(手前)に沿って南に向かう水路のに分かれていたが、現在は南への水路だけが残っている。
柴崎稲荷神社はかつての柴崎村の鎮守社で、もとは天満宮山王稲荷合社と呼ばれており、その名の通り、天満宮、山王社、稲荷社を併せ持った神社であった。創建年代は不祥だが、少なくとも16世紀頃からこの地にあったようだ。崖線の斜面、長い石段を登った上に拝殿がある。雑木林に囲まれ鎮守の森にふさわしい立地だ。
神社の背後の台地上、現在マンションとなっている一角にはかつて日本針布の工場があり、戦時中は風船爆弾に使う和紙の風船をつくっていたという。そして一説によれば、この工場からの排水が1950年代末から深大寺用水西堀に流れこむようになって、一気に水質が悪化したという。同時期に東掘には、仙川用水経由で三鷹の工場排水が流れ込むようになり、金子田んぼの廃業につながったようだ。
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参道沿いに古いコンクリート蓋暗渠が歩道となって続く。柴崎村にはあまり深大寺用水を利用した水田はなかったが、ここの水路の両岸には戦後まで水田が広がっていた。特に左岸側、現在島田理化工業となっている敷地はすべて水田で、崖線沿いに分かれた水路から水を引き入れていたと思われる。
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100mほど南下すると、広い車道(中溝通り)に出る。コンクリート蓋はここで消えるが、かつて水路はここで再び東に向きを変え、甲州街道方面に向かっていた。現在は普通に舗装された歩道となっている。
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旧金子村のエリアへ入ると、中溝通りから脇道にそれる。緩やかにカーブする道に少しだけ水路の名残がある。ブロック塀の下の土留めが思わせぶりだ。
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水路跡の道は自動車教習所やワンダーシティ調布など商業施設の集まる一角の中を抜けて、甲州街道に突き当たる。そしてその南側から再びコンクリート蓋暗渠が始まる。写真は甲州街道南側から上流方向を望んだもの。
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ここから先、野川への合流地点までは次回に取り上げることとして、いったん柴崎稲荷神社の近辺まで戻ろう。神社の前で分かれた水路は、崖線の下を東進して、厳島神社の湧水池から流れ出す小川に接続していた。深大寺用水西堀下流部は、この小川の流れを利用している。厳島神社は柴崎神社から200mあまり東の、崖線下の窪地に立つ神社で、こちらは旧金子村の鎮守社だ。
創建年代は不明であるが、この地に土着し湧水を飲用や生活に利用していた人々が池端に祀った弁天祠が発祥となったといわれている。新編武蔵風土記稿には、この地に「牛首」と呼ばれる周囲7m、深さ6mの井戸のような水の溢れ出す湧水があり、童子が牛の首に乗って出現したという伝承が記されている。
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鳥居の右手には、小さな乾涸びた池が残っている。かつては崖線下に湧く豊富な湧水をためた130平米ほどの池があり、田用水に利用していたが、1960年代前半の社殿改築時にその大部分が埋め立てられてしまったという。古い地図を見ると神社本殿の周りにぐるっと水路を回してから流れだすように描かれている。
神社の周囲はかつて「経水山」と呼ばれ、池の水で弁慶等が大般若経を書写したという言い伝えも残っている(このような伝説は府中の「弁慶硯之水井」など各地にあるようだ)。しかし今では湧水はおろか水の気配は一切無く、崖線の上にはマンションが立ち並んでいる。
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東南東にまっすぐのびる神社の参道沿いには、暗渠が歩道となっていて、ところどころには小さな蓋が設けられている。
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歩道の尽きたところから、ごくささやかなものではあるが、小さなコンクリート蓋暗渠が現れる。何も知らなければただの側溝だが、かつてはここを湧水が流れていたのだ。
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更にその奥からは、水路はU字溝の開渠となる。水路自体の細さに比べ広く取られた左右の土揚敷のスペースは、かつて水が豊かに流れていたことを偲ばせる。
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その水路の行き着く先は突き出したマンホールだった…。かつてはここで、柴崎稲荷前で分かれた水路が左から来ていて、厳島神社からの流れに合流し右(南東)へ流れていた。
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この流路は車道になってしまっていてほとんど痕跡はないが、一部は車止めの設けられた路地として残っている。水路は甲州街道を越えた先で西堀本流と合流していた。甲州街道脇の本流と挟まれた区間は中溝と呼ばれる低湿地帯だったという。
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(以下つづく。次回で深大寺用水西堀編は完結します。)
by tokyoriver | 2012-02-14 22:58 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
前回まで6回にわたり深大寺用水東堀を辿ってきたが、こんどは深大寺用水西堀をたどってみよう。西堀は、現在の東八道路の南側の「水わかれ」で、T字に東掘と分かれ、深大寺村、佐須村、柴崎村、大町村を流れて野川に注いでいた。
深大寺用水東堀が、用水開削の直接の引き金となった野が谷田んぼや下流部の金子田んぼといった水田の灌漑用としての性格が強かったのに対して、西堀は上流部には水田はなく、下流部も比較的水に恵まれていた土地が多く、どちらかというと生活用水としての要素が大きかったように思える。「水わかれ」での水の配分量はおよそ5対3で西堀のほうが少なかった。
まず全体の地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。
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左上から中央を横切り右下に流れる青の太いラインが西堀本流だ。下流部は、厳島神社からの川(紫色のライン)を利用し、深大寺用水東堀流末(緑色のライン)と並行しながら野川に注いでいた。中央左の緑は神代植物公園だ。西堀からもいくつか分水が分かれていたが、それらは都立農業高校神代農場を水源とする「マセ口川(ませぐちかわ)」や深大寺を水源とする「逆川」、そしてそれらから分かれた灌漑用分水と絡み合いながら、国分寺崖線下の水田を潤して野川へと注いでいた。
西堀の上流部、台地上のルートは現在では1箇所を除いて全く痕跡が残っていない。一方で、崖線を下って野川沿いの低地に出た以降はコンクリート蓋暗渠や開渠水路などの痕跡が比較的残っている。今回はまず上流部の紹介となる。
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「水わかれ」から西に流れた西堀は、調布北高校の北西角で直角に曲がり、武蔵境通りにそって南下していた。かなり深い掘割となっていた箇所もあったというが、最近武蔵境通りが拡張されたこともあり、その痕跡は皆無だ。神代植物公園正門付近まで来ると、水路は再度直角に曲がり、神代植物公園の真ん中を横断するバス通りに沿って東進していた。正門付近では南側に向かって深大寺方面への分水路も分かれていた。こちらは深大寺周辺の湧水を集めるマセ口川に落とされていた。だが水が豊富であまり必要性がなく、1940年頃には水が止まっていたという。

ちなみに、「神代」は一帯の旧町名で、1889(明治24)年の町村合併施行時、新村名候補が「深大寺村」と「狛江村」に割れた末、妥協案として「神代」の字があてられ「じんだい」とも「かみよ」とも呼べるようにしたのだという。その後、戦後占領軍がローマ字表記を義務付けたときに、神代村役場が「JINDAI」と表記したことで結局「じんだい」となったそうだ。

バス通り沿い、神代植物公園を抜け、深大寺五叉路を過ぎたあたりから、何となく水路の名残が感じられる。不自然に、片側だけに設けられたガードレールの歩道。これがかつての水路跡だ。1970年代初頭の地図ではまだ水路が描かれており、その後埋められたか暗渠化されたのだろう。
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歩道の上には、調布市のマークの入ったマンホール。水路の痕跡なのか、それとも関係ないのか。
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歩道がなくなるところで、水路はバス通りを離れて南に向かっていた。写真奥に向かう道に沿って、かつて西堀が流れていた。
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緑の多い住宅地をゆるやかに曲がりながら進んでいく。水わかれからこの辺りにかけての集落はかつて深大寺村に属していたが、水利権を持っておらず、用水の水は利用できなかった。水路の清掃(川さらい)は下流部で水利権を持つ柴崎村から人が来ていたという。
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やがて水路は絵堂(えんど)地区に入る。突き当りの森は、深大寺用水の開削を主導した富澤松之助の一族の屋敷地だ。ここで水路は二手に分かれ、ひとつは直進して屋敷地に取り込まれていたが、その跡は残っていない。
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もう片方は、屋敷地の東側にそって流れていた。水路の跡なのかどうかはわからないが、アスファルトの舗装の脇に、比較的幅広の、土の露出した空間が続いている。
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屋敷地が一旦途切れるところを横切る道には、不自然な位置に電信柱や雨水枡があった。2本の水路を結ぶ水路跡の敷地かなにかなのか。
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更にその南側にも、更に一族の屋敷地が続く。中央高速の脇の一角には市指定の天然記念物「絵堂のカゴノキ(鹿子木)」の標識があった。標識の背後の辺りがかつての富澤松之助宅だ。敷地内にはかつて西堀から引き込まれた水路で池がつくられていており、川ン戸と呼ばれる洗い場もあったという。また、明治後期から大正後期にかけては水路に水車(直径3.6m)を設置して「あげ場(製糸工場)」も運営され、神代村製糸組合に加入する養蚕農家がここで生糸を紡ぎ八王子に出荷していたという。
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標識のすぐ南側には中央高速道が深い切通しを抜けている。道路の向こう、左の濃い緑の木がカゴノキだ。その右側はすべてかつての松之助の屋敷で、切通しの場所も屋敷の敷地だったという。そして現在切通しに架かる池ノ谷橋の辺りで、二手に分かれていた水路は再び合流していた。
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中央高速の南側も畑や宅地となっているが、水路跡はまったくわからなくなっている。古地図を頼りに、かつての水路跡と並行する道を南進していく。
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道は鬱蒼とした屋敷地を抜けてやがて未舗装になり、「かに山」と呼ばれる崖線の緑地に出る。そして、「かに山キャンプ場」から合流する道沿いに素掘りの水路の痕跡が残っていた。わかりにくいが、写真中央、黒い柵の左側が深大寺用水西堀の水路跡だ。
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上流側から見る。奥の柵沿いを左からここまで辿ってきた形になる。水路はだいぶ埋もれてしまっているが、わずかに凹んでいる。
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辿ってきた道の反対(東)側は私有地となっているが、水路の窪地に竹が並べられているのが見える。
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水路のすぐ南側は国分寺崖線の崖縁となっている。写真中央、斜面の上の緑色のフェンスの奥が水路跡だ。奥からやってきた水路はこの崖線にぶつかって、直角に写真右方向に折れていた。かつては、ここから二筋にわかれて滝のように落ちる分水もあり、その水路はマセ口川へと注いでいた。
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竹の並べられた先をぐるっと回りこんでみると、晃華学園の西側を通る道路に面して私有地があった。先の水路はこの辺りまで続いていた。奥に水路の痕跡がありそうな気配もあるが、立ち入り禁止なので様子は伺えない。
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かつて水路はここで坂の方向に折れ、晃華学園の西側から南側の国分寺崖線を斜めに下って行っていた。
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坂の途中にある祠。この上のあたりから水路は現在晃華学園の敷地となっているとこえろを東に流れていた。晃華学園の場所では明治時代中期より「竹内製糸工場」が営まれ、先の富澤家屋敷内と同じく直径3.6mの水車により生糸生産が行われていた。
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更にその先では、「山越水車」が設けられていた。山越水車の正確な設立時期は不明だが、深大寺用水開通後かなり早い時期に設けら、1943年頃まで稼動していたという。崖線の落差を利用した、直径7.2mという大きな水車で搗き臼14個、挽き臼を3個動かす大規模なものだった。現在でも写真右手の崖線斜面上に、水車を回すため複雑に配されたコンクリート造りの水路遺構が残っているという。
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西堀は崖線の上で、山越水車を回す水路、いったん池に溜り崖線を下った後、西側、かつての佐須村方面に向かう水路、そして直接東に下る水路の3つに分かれて台地上から崖線の下へと下っていた。直接下る水路は、写真奥の竹林の中の斜面を、左奥から右にかけて流れていたようだ。
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そして下りきった先、神代中学校の南側でようやく、はっきりとした水路跡の敷地が現れる。この先は、開渠や蓋暗渠、池跡などが次々と現れていく。
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(つづく)
by tokyoriver | 2012-02-07 00:06 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)
ここまで5回にわたって深大寺用水東堀を追ってきたが、最後は京王線の線路付近から、野川の合流地点までを辿り、いくつかの支流もあわせて紹介しよう。下の地図で「今回記事」の区間となる(地図はgoogle mapより)。青色と黄緑色が用水路(の暗渠・水路跡)、紫色と水色が自然河川(とその暗渠・水路跡)である。現在も水が見られるのは甲州街道以南の入間川(紫の太いライン)と野川(水色の太いライン)のみだ。
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東堀本流流末

まずは前回記事の最後の地点から。甲州街道から離れた水路は、道路の歩道になりすました、長いコンクリート蓋の暗渠となって曲がりくねって下っていく。この辺りから水路は幾筋にも分岐され、流域の水田を潤していた。前にも記したように、それらの水路の大部分は、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)の開削時にすでに流れていたようで、江戸期の絵図にも現在痕跡として確認できるのとほぼ同じようなルートで水路が描かれている。この辺りはもと金子村、大町村のエリアだ。
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少し先で、暗渠は新しい道路に遮断され、消滅する。その先には京王線のガードが見える。水路はもともとこのガードの下をくぐっていた。
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ガードを越え、何の変哲もない道路となった水路跡を少し進むと、車止めに遮られた道となる。そしてその中央には、水路を埋めたような帯状の新しいアスファルト地帯が出現する。
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アスファルト地帯は見事な蛇行を描いている。
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水路跡は、品川通りを越え、神代団地2号棟の北側に至る。やや荒れた感じはあるが、車止めもあって水路跡らしさを醸し出している。流路はかつてこの先、突き当たりを右に折れ、後はジグザグに野川に向かっていたが、はっきりした痕跡をたどれるのはこの辺りまでだ。
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団地の中は格子状に整備された道路の間に整然と団地が並び、水路跡が残る余地はない。神代団地は1965年に分譲を開始した、60棟近くある大型の団地だ。国分寺崖線下から野川沿いにかけて広がっていた「金子田んぼ」を潰して造成された。深大寺用水東堀の本流はその「金子田んぼ」を横切るように流れていた。用水本流以西のエリアは水を得にくい土地柄で、用水路は幾筋にも分岐されて水田の灌漑に活用された。一方で用水本流以東のエリアは、もともと湿地の「どぶっ田」で、水はけも悪く足を踏み入れると腰まで沈むほどであったという。
戦後の食糧難対策として、各地で推進された農地改良法に基づいた大規模な土地改良事業が、この「金子田んぼ」でも実施された。1954年から57年にかけて10mおきに何千本もの暗渠排水管(ここでの暗渠は、土地の水はけをよくするための地下集水管)を埋め込む事業が行われ、稲の収穫高は一時向上した。ところがその翌年には日照りによる水不足がおき、更に深大寺用水上流部の開発(宅地化もさることながら、工場の増加も)により水質が急速に悪化し、せっかくの土地改良の成果を無に帰してしまう。結局1961年に最後の収穫がされたのち、1962年には水田はすべて住宅公団に売り払われ、団地が造成された。今でも暗渠排水管の多くは埋まったままだという。そして深大寺用水もまた暗渠化された。
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団地の中を横切る野川の川岸に、深大寺用水東堀の合流口の名残がひっそりと残っている。そこからはもはや水は流れ出ていない。
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さて、東堀編の最後に、旧金子たんぼエリアを流れていた関連水路を3つほど取り上げよう。先に、わかりやすいように、金子田んぼエリアの拡大図(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)を載せておく。
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大町堀

まずは「大町堀」と呼ばれていた分水路。別名カズタ堀とも呼ばれていたというこの水路は、その名の通り仙川用水時代から、大町村の水田を潤していたようだ。水路は冒頭の写真の場所の直ぐ側(赤いポールが見える箇所)から南西に分岐する。現在の分岐点は、ただの未舗装の道があるだけとなっている。
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ところが、ここは数年前まで半ば埋められた水路が残っていたのだ。写真は2008年撮影の同じ場所だ。ゴミが捨てられ荒れているが、れっきとした水路である。手前の橋のような遺構の下には暗渠へつながる穴も残っていた。
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そしてそこから進んだ先、更に左手に水路が分かれる地点も、護岸の切れ目と、地中に埋まった分水路のかたちがはっきりと確認できたのだが、今では右岸の護岸が残る以外は跡形もない(上は2008年、下が2011年の写真)。
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分岐点より先は、京王線のガードの直ぐ側まで、埋められた大町堀の護岸が続いていた(2008年の写真)。
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こちらは2011年現在も残っているが、なぜか水路の中は砂利で埋められている。
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水路に架かる京王線の橋の下は、現在は人の通れるガードとして利用されているが、高さは2mもなく、少し腰をかがめて通らないと頭をぶつけるだろう。
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京王線より先、水路は深大寺用水西堀と並行するように流れて、最後に合流して野川に注いでいた。2つの水路の間は水田となっていて、そこだけ大町村の中に金子村が細長く食い込んでいた。京王線以南の西堀は見事なコンクリート蓋暗渠が今でも残っているが、こちらは追々、西堀の記事で取り上げよう。

大町堀分流

次に、先ほどの写真の分岐点で分かれていた大町堀の分流の痕跡を。分岐点の先、水路の跡は畑の中の畦道となって、京王線の線路で行き止まりになるまで続いている。
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この水路は京王線の南側で更に幾筋もの流れに分かれていた。その水路の跡は、断片的に細長い空き地となって残っている。こちらは神代団地の南西側に残るそのひとつで、旧大町村と深大寺村の飛び地の境界線にもなっていたようだ。雑草が生い茂り、フェンスに囲まれている。25メートルほど西側にも平行して水路が流れていて、2つの水路に挟まれて水田があった。水路は水田を潤した後、大町堀に再度合流していた。
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八反田用水

最後に紹介するのは「八反田用水」と呼ばれていた水路。こちらは直接深大寺用水から水を引いていたわけではない。国分寺崖線の下を流れていた深大寺用水東堀本流と、崖線の上を通し、結局水の流れることのなかった覚東方面への分水路の間に挟まれた一角に湧き出ていた湧水を利用した用水路で、水源のある常楽院の南側の小字名「八反田」からその名を取っている。
常楽院の墓地の南側、住宅地の中にぽっかりと駐車場と、土の斜面の空き地が残っている。この辺りがかつて湧水池があった場所だ。ぽつんと残された弁財天の祠が、ここが水に関連する土地であることを示している。
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弁天祠はだいぶ朽ち果てているが、供え物もされていて今でも信仰されているようだ。裏側には文政11年(1828年)の文字が刻まれている。
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用水路は池の南東から流れ出ていた。現在でも水路跡の路地が残っている。
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品川通りを越えた先にも用水路跡の痕跡は続いている。水路は深大寺用水東堀本流と、覚東方面への水の流れなかった水路の間を神代団地方面に抜け、そのまま神代団地の北縁、「金子田んぼ」の「どぶっ田」だったエリアの外縁に沿って南東に流れていた。流末は野川に注いでいたようだが、今では確認はできない。
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なお、水が行き着かなかった村「覚東村」は、現在の狛江市東野川近辺にあたる。現在では野川を越えた反対側となっているが、1960年代後半に改修工事が行われるまでは、野川の左岸側だった。村は結局野川に堰を設け、通称「覚東用水」をひいて灌漑に利用したという。

6回にわたって追ってきた深大寺用水東堀、いかがだっただろうか。2度にわたって隧道で尾根を越え、3つの谷筋をシフトしながら進むその水路のルートや、それにまつわるエピソードには、水田を営む人々の水への切実な想いが詰まっていた。それは遠い昔の話ではなく、ほんの50年前まで続いていた話なのだ。水の流れていた入り組んだルートを解明していくと、それはまさに水を巡る記憶でもあることがわかる。

引き続いて2、3回にわけて深大寺用水西堀を追ってみよう。さらにその後で、入間川(中仙川)の取り上げていない区間や仙川分水についても取り上げてみたいが、こちらはしばらく間をあけての記事になるかもしれない。

(つづく)
by tokyoriver | 2012-01-21 00:25 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(2)
深大寺用水東堀シリーズ、今回とりあげるのは「らんせん池」のあるつつじヶ丘公園の少し先の付近から、甲州街道沿いの隧道を抜けた辺りまで、下の地図で「今回記事」の区間となる(地図はgoogle mapより)。
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今回は5mメッシュのあるエリアに入るので、段彩図もあわせて載せておこう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。
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下の写真は、前回の最後でとりあげた、らんせん池付近を水源とし深大寺用水に並行する小川。仮に「入間川西つつじケ丘支流」とでもしておこう(→小川の流れる谷の小字名が「狢沢」であることがわかった。よって、この小川は「入間川狢沢支流」と呼ぶのがふさわしいだろう(2012.5追記))。谷底の擁壁にそって曲がりくねった暗渠が下っている。地図によってはらんせん池の他に、この辺りにも池が描かれているものもある。右側の斜面の上をかつて深大寺用水東堀が流れていた。
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擁壁の下をくねくねと。右岸の斜面は徐々に緩やかにり、苔むす疎らな林が暗渠沿いに続く。
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そばを並行する道路に出て上流方向を眺めるとこんな感じ。植え込みのあたりにかつて深大寺用水東堀が流れていたようだ。その更に右手の林の中に、西つつじケ丘支流の暗渠が流れている。林は、西つつじケ丘緑地と名付けられている。左側の住宅地のところにはかつて水車があった。1884(明治17)年に設置され、昭和初期まで稼働していたという。近くの金龍寺に、水車の中で動いていた石臼が保管されている。
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コンクリートで固められた水路跡らしき遺構。これは西つつじケ丘支流の方で、すぐ右隣を深大寺用水が流れていた。最も近い場所では2つの水路は1mほどしか離れていなかったというが、このあたりのことだろうか。
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そのすぐ先で、支流の方は東に逸れて下っていき、用水路は道に沿って直進・南下していた。
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深大寺用水東堀は、道路の東側に沿って甲州街道まで流れていた。ちょうどその箇所は歩道になっていて、東側に少し傾斜している。
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深大寺用水の続きを辿る前に、つつじヶ丘支流の暗渠にちょっと寄り道。コンクリート蓋暗渠が住宅地の裏側の少し低くなったところに続いている。緑も多く、なかなかの雰囲気だ。
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水路の左側(東側)にはかつて、川に沿って細長く水田があった。そして下の地図のように、その東側には三鷹市が調布市のエリアに細長く食い込んでいる(水色ラインが境界線)。前回の記事に示したように、かつての中仙川村がらんせん池のところにあった湧水を確保するためこのような境界線となったのではないかと思われる。そして、現在は調布市に属している、かつて水田だった川沿いの土地も、古い地図をみると「仙川入会」と記されており、中仙川村の土地もしくは旧金子村(現調布市)との入会地だったのではないかと考えられる。
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真新しい蓋が一瞬現れた後、暗渠はアスファルト路地になり、更に東へ逸れていく。
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そして通りに出たところで、いきなりいびつな形の鉄板の蓋が現れる。道路を跨いだ先には「中仙川遊歩道」と記された車止めの路地が見える。
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ところが、鉄板の蓋の先は南に折れていて、コンクリート暗渠がすぐ先の甲州街道滝坂下交差点まで続いている。
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一方、車道を挟んでコンクリ蓋暗渠と反対側を北に向かって見てみると、先に見えた中仙川遊歩道へと続く歩道がやって来ていて、こちらも中仙川遊歩道と名付けられている。
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この場所は水路が入り組んでわかりにくいのでもう一度、少し前に上げた地図を見ていただきたい。黄色の丸で囲んだ場所がこの暗渠が入り組んでいる地点だ。車道沿いの「中仙川遊歩道」(地図の緑色のライン)は、実際には中仙川(=入間川)ではなく、かつての仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)の下流部で、もともとは鉄板暗渠の先のコンクリート暗渠のところにつながり、滝坂下交差点で甲州街道沿いに西に折れて流れていた。段彩図でわかるように、その流路は入間川の谷底よりもやや高いところを流れている。一方で、鉄板暗渠の向こう側に見えた中仙川遊歩道は、もともとは入間川西つつじケ丘支流の下流部で、図のピンクのラインのようにつながって、入間川(中仙川)につながっていたと思われる。
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1回目で触れたように、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)は17世紀に4つの村の灌漑用水として開削された、玉川上水からの分水だ。形としては品川用水を途中から分水したようになっているが、もともとはここまでの区間は仙川用水として開削され、後から品川用水が開削されたといわれている。上仙川村は現在の三鷹市新川の一部で仙川の上流域、中仙川村は入間川流域(三鷹市中原)、金子村、大町村は現調布市西つつじケ丘、菊野台で、野川の流れる低地の東側となる。このように3つの川の流域に水をもたらすために、仙川用水はまず仙川方面に水を落とし、次に入間川の中流域を利用して中仙川村の水田を潤した後、水利権の無い入間村方面には流さぬように、新たに開削した水路で再度入間川から分かれて、更に隧道で谷をシフトし、野川流域の金子村、大町村方面につながれていた。深大寺用水東堀の下流部は、この仙川用水流末をそのまま利用している。
仙川用水と入間川つつじケ丘支流の交わる地点がどのようになっていたのか不明だが、立体交差などではなく、堰などを設けて出入りする水量の調節で運用していたのではないだろうか。

仙川用水は甲州街道の北側に沿って西進していて、すぐに真っ直ぐ南下してきた深大寺用水が合流していた。ここまでの仙川用水は品川用水とも呼ばれていたという証言もあるが、一方で深大寺用水もこの辺りでは「砂川用水」と呼ばれていたので「すながわ」と「しながわ」が混同されている可能性も否めない。
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水路はつつじヶ丘交番の前付近でクランク状に甲州街道南側に移る。ちょうどその箇所で、歩道の幅が急に狭くなっていて、水路が合った頃の痕跡を残している。
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そして甲州街道を挟んだ南側には欄干のようなコンクリートの遺構がぽつんと。ここには金龍寺橋ともゲンド橋とも呼ばれていた橋が掛っていた。このコンクリート遺構が橋、あるいは水路に関係あるのかどうか不明だが、その場所はちょうど向かい側の歩道の細くなる場所に対応していて、偶然にしてはできすぎている。
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かつて水路は甲州街道の南側に移ってすぐに、素掘りの隧道に入っていっていた。仙川用水開削時から隧道だったと言われているが、江戸時代の絵図には普通に水路の青いラインとして描かれており、明治期の迅速図にも普通に水路として描かれていて、もともとは深い掘割だった可能性もあるかもしれない。昭和初期まではこの付近では京王線が甲州街道の上を路面軌道で通っていた。
甲州街道を西方に望むと、先の方が下り坂になっているのが見える。深大寺用水の隧道は、左側(南側)の歩道の下辺りを流れて手前の丘を越え、野川沿いの低地に出ていた。
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調布市役所神代出張所そばの、水路が隧道から顔を出していた地点には、怪しい欄干と、フェンスに囲まれた空間が残っている。水路に関係する空間なのだろうか。
ここから右手奥に見える植え込みの方に、深大寺用水開削時に新たにつくられた、覚東村方面への水路があった。しかしこの水路には水が流れることはなく、まもなく覚東村は用水路組合から離脱し、水路もなくなったようだ。ただ、地籍図には水路として記されている。
またそれとは別に、水路が隧道から顔を出す手前に別の隧道が分かれて、写真右外れの敷地に合った水車を回していた。水車は昭和初めにはなくなったが、その名残の製綿工場は1970年代まで残っていたようだ。現在敷地はマンションになっている。
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隧道から出て少し先の地点で、深大寺用水は甲州街道から直角に流れ、かつて金子村・大町村の水田の広がっていた低地へと流れていく。この区間の水路も、分流を含めて仙川用水の時代からあったものをそのまま利用している。写真左手前のアスファルトが甲州街道の歩道、右奥へと延びる歩道が深大寺用水の暗渠だ。わかりにくいが大きめのコンクリート蓋暗渠となっている。
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次回は深大寺用水東堀本流の野川合流地点までと、途中でいくつも分かれていた水路の痕跡についてとりあげる。次回にて東掘編を何とか終えられそうだ。
(つづく)
by tokyoriver | 2012-01-13 00:37 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(2)
前回から少し間が開いてしまったが、今回取り上げるのは、「二段水路」に続く隧道から下流、下の地図で矢印で示した区間。
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深大寺用水東堀は、二段水路でいったん入間川に引き入れた水を回収し、内野水車を回したすぐ先で、長さ180mほどの隧道に入って入間川の谷筋から隣りの谷筋に越えていた。
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かつての隧道の入り口には一応碑が建てられているが、日焼けで色が抜けてしまってそこに記されている文字を読むのはかなり困難だ。
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碑の裏側は行き止まりとなっているが、かつてここに隧道が口を開けていたのだろう。
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深大寺用水の開削を主導した、富澤松之助は当時27歳、田畑3600畳分、屋敷の杉の大木といった私財を投げうって人足や経費を賄い、村々の利害を調整して開通に尽力したとう。上流である砂川分水(梶野橋まで約14.2km)の拡幅、整備には2ヶ月かかったが、その下流の梶野新田分水(野崎まで6.1km)拡幅は1週間、新規の水路となる東堀(現つつじヶ丘駅前で仙川用水下流部に接続するまで4.6km)、西堀(野川合流地点まで5.7km)の掘削はわずか11日間で完了したという。その後、一月半ほどの調整を経て水が流末まで達するようになったそうだ。
そんな中で、二段水路から隧道にかけての区間は開削にあたっての最大の難所だったと思われる。ローソクを立てて隧道を掘ったという言い伝えもあるが、夜中に提灯を掲げて高低差を調節したという伝説の残る玉川上水のように、高低差のチェックをしながら掘ったのだろうか。隧道には途中何ヶ所かに泥抜きのたて穴があって、隧道を掘った際にそこから土を出すとともに、開通後には水路清掃に利用していた。毎年水田に水を入れるシーズン前の泥さらいは、隧道より下流の金子村の人たちの手によって実施されたという。
隧道は子供が遊びに入れるくらいの大きさで、中にはコウモリも棲んでいたそうだが、今では中央高速道の切通しとなっていて、もはやその痕跡を確認することはできない。
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南側、かつて出口があった近辺。横切る道路の向いに隧道の出口があり、そこから手前に水路が通っていた。
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この先暫くの水路跡は「柴崎緑道」として整備されている。緑道沿いは現在は柴崎だが、かつては金子村と深大寺村の飛び地だったという。柴崎村には東堀の水利権はなかった。
水路が流れているのは蛇窪と呼ばれる谷筋で、先のトンネルの出口のそばには「蛇窪の水車」があった。1878(明治11)年、水路に通年水が流れるようになった直後に設置され、幅50cm弱の水路で引き入れた水が直径4.5mほどの水車を回していた。水車は富沢家と金子家による設立で、搗き臼6個が稼働していたが、大正末に火災で焼失したという。
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緑道が終わり、車止めのあるいわゆる暗渠道に。
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両側を擁壁に囲まれた風情のある暗渠。用水路とはいえ、谷筋を利用していることがよくわかる。既存の水路を部分部分で活用しているのが、迅速に開削できたポイントなのかもしれない。
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妙に開けている、暗渠が直角に曲がる地点。手前左側からきて、直角に曲がり左奥へとつながっていく。
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此処から先もまた暗渠らしい路地。
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つつじヶ丘駅から深大寺に向かうバスの通る道に出る。
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車道をまたいだ先の歩道には、ちょうど暗渠の出口の延長線上に、コンクリートの斜めのラインが入っている。ここから暫くは、暗渠は道路沿いの歩道となる。
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宮の上バス停の近くで歩道はなくなり、未舗装の暗渠が東へと逸れていく。
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こちらは2008年の写真。右側の家はまだ無く、暗渠上に生い茂った草を刈っているところだった。
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緑の多さはあまり変わらない。
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ブロック塀の下に、古い護岸と思われる擁壁が残っていた。
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入り口と同じような車止めで、公園の敷地へと向かう。
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公園の敷地の北側、一番低いあたりに未舗装の車止め付きの道が通っていて一見川跡に見えるが、これはただの道。実際の水路はこれより南寄り、写真右端のやや高いところを通っていた。
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フェイクの川跡をまっすぐ行った先には、見事なスリバチ状の窪地となったつつじケ丘公園がある。スリバチの底には「らんせん池」との石碑のたった小さな池がひっそりと。池は1936年にこの地に居構えた政治活動家、田中澤二が、湧水を利用して作ったもので、彼の筆名「蛍澤藍川」に因み没後「らんせん池」の碑が建てられたようだ。
もともとはこの湧水は灌漑に利用され、中仙川村に水利権があったものと思われる。そのため、ここは調布市に細長く三鷹市が食い込んでいる不思議な境界線となっている(しかも一部未確定)。深大寺用水は二段水路のところでもそうだったように、あくまで中仙川村には一滴の水も与えないスタンスであるから、ここも谷筋には入らず回り込むように通されているというわけだ。
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深大寺用水の水路はこのスリバチとそこから続く谷を避け、斜面の中腹を南下していく。写真左側の植え込みの所がかつての水路跡である。
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マンホールのすぐ脇には木が生えていて水路の向きを考えると地下がどんな塩梅になっているのか、想像がつかない。
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下って行くとやがて左手に谷が現れ、その底に突然コンクリート蓋暗渠が始まる。これは深大寺用水の水路ではなく、もともとは先のらんせん池のところにあった湧水を水源とする川だといい、流末は入間川につながっている。池からこの地点まで宅地の造成のためか谷が埋められてしまったようで、そのため池の周囲は完全なすり鉢状となっていて、こちらの暗渠もコンクリートの擁壁の下から突然始まるかたちになっている。深大寺用水はこの水路には合流せず、少し高いところを平行して南下していく。
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(つづく)
by tokyoriver | 2012-01-01 01:00 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
深大寺用水東堀・入間川シリーズの3回目は、上流の方に戻って東堀から分かれて野が谷の東縁を流れていた分流と、入間川の源流部を追っていこう。下の地図で、オレンジ色のラインで区切った区間が取り上げるおおよその範囲だ(用水路の全体の地図は第1回に掲載)。
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入間川源流地帯と、東堀分流

下の写真は1回目で取り上げた、野が谷の谷頭付近のすぐそば。右奥へと下るやや太い道が谷の真ん中で、奥のほうに入間川源流地跡の碑が設けられている。そして手前から左奥へと回りこんでいく道に沿って、深大寺用水東堀の分流が流れていた。深大寺用水東堀の本流とこの水路で、野が谷の谷の両縁を、入間川(いりまがわ)の源頭部をはさみ込むように流れるかたちとなっていた。
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入間川(大川)源流地跡の碑。野が谷の谷筋の源頭部には、諏訪久保という小字名がつけられていた。1回目に取り上げた諏訪神社に由来するものだろう。碑に記されているように、入間川はこの辺りでは大川と呼ばれていた。そもそも入間というのはかなり下流部の地名(旧村名)で、川がその名で呼ばれるようになったのはかなり最近のことではないかと推測されている。碑の立つ深大寺東町8−13近辺と、500mほど下流の深大寺東町6−31付近には「釜」と呼ばれる地中から水の湧き出る地点があっておもな水源となっており、川沿いにはその水を利用した水田が古くから開けていて、江戸時代には「野が谷たんぼ」と呼ばれ深大寺村の耕地となっていた。

だが、1855(安政2)年の安政大地震で「釜」の水涸れが起こり、野が谷田んぼは壊滅状態となった。当時は一帯は天領で年貢が少なかったことから、干上がった田んぼは畑に転用されていたようだ。しかし明治維新後品川県に編入されると課税が強化され、水枯れの影響を受けなかった村の他の水田の負担が重くなり、野が谷田んぼの復活が急務となった。これが、1871(明治4)年の深大寺用水開削の直接の契機となった。

その後、釜の湧水は復活したが、震災前の水準には戻らず、水源の碑近辺の釜は戦前には枯渇した。一方で、東町6丁目付近の釜は1960年頃までは水をたたえていたとの証言もあり、確かに戦後の航空写真や地籍図でもその姿が確認できる。しかし61年から野が谷田んぼは埋め立てられて住宅地となり、「釜」があった場所にも住宅がたち全く面影はない。
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谷の東縁に沿って流れていた深大寺用水東堀の分流は、幅は1mにも満たない細い流れだったという。東縁の斜面は西縁よりも急で、谷頭付近では森林になっていた。現在でもその名残の竹林が残る一角がある。斜面下の道沿いに、かつて東側の分流が流れていた。道の右側の住宅地は50年前までは一面の水田だった。
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分水路や入間川には随所に堰が設けられ、水田や、入間川との間を結ぶ横向きの水路を介して、水をジグザグに行き来させて水田を潤していたとのことだ。冒頭に載せた地図には主水路しか記していないが、実際には細かな水路が複雑に張り巡らされていた。下は1955年ころの地籍図に描かれた水路を、全てではないがだいたいプロットしてみた地図。深大寺用水の2本の流れの間はすべて水田だった。また、用水と入間川の流れの間にも更に水路が並行している。そして「釜」が健在であることもわかる。
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かつての入間川の流路である「野が谷通り」には、ほとんど川の気配はないが、2ヶ所ほど不自然な歩道が設けられている。写真の場所は消防大学通りを越えた地点。この歩道の区間は1980年代初頭まで開渠だったようだ。
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そして、歩道が突然尽きる地点の住宅地を裏側に回りこむと、なんと深大寺用水東堀分流跡の路地が残っていた。路地の両端は実質的に行き止まりとなっていて、途中数カ所、出入りできる場所があった。
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北端に近い地点から入り南下していくと、未舗装の路地になる。水路を埋め立てた後に作られたU字の側溝が続いている。
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進んでいくと、雑草の中に轍の残る、足を踏み入れるのに躊躇するような空間に。そんな場所だけど、勝手口が設けられている家もあって、一応通路として機能はしている様子。
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途中で通り抜けを断念、暗渠路地を離脱して、下流側の出口へと回りこむ。入り口には木が生え、侵入を拒んでいる。手前の道を左に進むと、入間川の暗渠道である野が谷通りを横切り、前回の最後に取り上げた暗渠路地へと出る。横切る地点から下流(南東)側の野が谷通りには、もう1箇所の「不自然な歩道」がある。こちらも80年代頃まで開渠だった区間だ。
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余水を回収する二段水路へ

ここで再度、前回の記事最後の暗渠路地に戻る。前回も少し記したが、この暗渠路地は、いったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。
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なぜそんなことをするのかというと。入間川中下流の中仙川村、入間村などは深大寺用水の水利権をもっていなかったためだ。深大寺用水東堀は、深大寺村のほかは、金子村、大町村、覚東村と、いずれも入間川の谷筋ではなく、野川方面の低地に水田を持つ村が水利権を持っていた。そこで、深大寺用水から野が谷田んぼに引かれた水の余りはすべて深大寺村内で回収され、尾根を越えて金子村方面へと送水されていたのだ。
少々わかりにくいので、この水を回収する仕組みが設けられているエリアをクローズアップした地図を。太いラインが今でも何らかの痕跡のある水路、細いラインは現在まったく痕跡のわからない水路だ。中央を横切っている太い道路は「原山通り」で、比較的近年につくられた新しい道だ。図の上端、分水路と記してあるラインが先ほどの細い暗渠、中央の水色のラインが、余った水を回収する水路となる。深大寺用水は野が谷のいちばん西側、少し高くなったところを流れている。両者は「二段水路」を経て合流し、水車を回した後、隧道で丘陵を越えて入間川の谷を脱していく。
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余水回収水路の暗渠路地は、原山通りを斜めに横切ってさらに続く。このしばらく先からは侵入できなくなるが、暗渠(水路跡)は南へと続いている。
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さて、原山通りを40mほど北東にシフトすると、原山交差点のそばに、入間川の暗渠の続きの入り口がある。このガードレールより下流側は、コンクリート蓋の幅の広い暗渠が出現し、ようやく入間川が川としての体裁を持った姿で現れるかたちとなる。
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ぐぐっとカーブする蓋暗渠。幅は結構広い。
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入間川の暗渠沿いは緑が色濃く、そして妙に亜熱帯っぽい雰囲気を漂わせていて面白い。南向きで、周囲の家々も低いので、木々が茂っている割には妙に日当たりがよいのも特徴的だ。
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クワズイモに蕗の葉。先ほどの地図にも記したが、この辺り(深大寺東町3−30)に入間川に落とした水を最終的に回収する堰があったという。この少し先からは中仙川村(現在の三鷹市中原)となって水利権がないからだ。先の地図にも記したが、この堰から150mほど下ると、仙川用水が合流していた。中仙川村は仙川用水の水利権は持っていて、入間川に流れ込んだその水を、水田に引き込んでいた。しかし、貴重な水を巡る綱引きは激しく、田植えの時期になると、夜暗に乗じて中仙川村の人が深大寺用水の水を奪うために、堰を切りにきたという。これを防ぐために、堰には下流の金子村の人たちが、夜通し見張り番をつけたという。これが決して明治期や戦前の話ではなく、昭和30年代、水田がなくなる直前まで続いたというから、驚きだ。
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堰から引きこまれた水は、さきほどの回収水路に合流していた。その回収水路が東掘と合わさる手前の水路跡。先の地図中央で、水路が西に折れ東堀の方に向かう手前の地点だ。侵入は厳しいがしっかり空き地となって残っている。
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水路が折れるところ。左から暗渠がきて、車道に出て直角に手前に曲がるのだが、水路の幅の分、急に歩道スペースが現れているのがわかる。
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回収水路は写真手前から。そして、右奥からの道がかつての深大寺用水東堀本流のルート。ここのT字路で、水路は両方共直角に折れ、左方向へ流れていた。ここにはかつて「二段水路」もしくは「二重水路」と呼ばれる、谷筋から水を回収する仕組みがあったという。余水の回収水路は、深大寺用水本流よりも低いところを流れていたために、本流の下(隣り?)に掘られた、ローム層を繰り抜いた隧道を通って高さを調整し、東堀に合流していた。隧道の長さはおよそ50mほど。先の地図で2つの水路が隣り合って平行している区間がそれである。村の境界ギリギリまで水田を潤しつつ、一滴の水たりとも権利のないエリアには流さないという執念が二重水路を生み出したのだろう。現在その痕跡は全くなく、土地も造成され以前の高低差がよくわからないのでどのような水路だったのか想像しがたいのが非常に残念だ。
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二重水路の合流地点のすぐ先には「内野水車」があった。深大寺用水は、開通当初は田用水として、稲作の時期のみ通水していたが、1878(明治11)年に水が通年流れるようになり、水車などにも利用できるようになった。「内野水車」が設置されたのは1882(明治15)年。主に精麦を営んでいて、「水車仲間」が決められた料金を支払って使っていた。
写真はかつて水車があった場所。中央を奥に進む道沿いに深大寺用水の本流が流れていた。水路は幅1m弱で両岸に1mずつの土揚敷があったという。そして、左手前から、水車に水を引くための分水路が左側に分かれていた。こちらも幅1m弱。そして、写真正面の畑のあたりに水車小屋があった。水車を回した水は、その先数十mほどで、再度本流に戻されていた。
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水車の直径は最終的には5mほどのものとなり、1942,3年頃まで稼働していたという。水車が廃止となったのは、戦時下の食料統制のため精麦ができなくなったからだというから、都区内の水車の廃止事情とはちょっと異なっている。

水車を回した後、深大寺用水は開削時の最難関であった隧道区間に入っていく。

(つづく)
by tokyoriver | 2011-12-17 23:22 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(6)
前回に引き続き、深大寺用水東堀を下っていく。水路が入り組んでいるので、地図に前回とりあげた区間と今回記事にする区間を記した。いずれもたどっているのは深大寺用水東堀の本流、野が谷の谷の西縁を流れていた水路の跡である。
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三鷹通りを越えると、ほとんど車が通らないのに、両側に歩道がある道が、谷戸の段差に沿って曲がりながら続いている。西側の、段差に沿った歩道が水路の跡だ。地図を見るかぎり、1970年代前半までは、開渠で残っていたようだ。
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舗道上には、通常L字溝にありそうな四角い枡の蓋。そして縁石にも雨水枡のところに不自然な凸み。コンクリートの擁壁の水抜き穴からは水が流れでた跡が染み付いている。
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暫く行くと歩道が消滅して川跡が不明瞭になるが、古地図を見ると、そのまままっすぐに流れていたようだ。水路脇には暗渠沿いにつきものの銭湯が登場。用水沿いの水田は1960年代初頭に埋め立てられ野が谷団地(団地といっても戸建ての宅地)となったのだが、その頃に出来たのだろうか。銭湯の周りは商店がいくつか集積していて、小さな田舎町の駅前のような雰囲気。
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銭湯の先、深大寺用水はコの字型に西側にはみ出して、TM家邸宅の中を通っていた(冒頭地図の中央やや右下)。深大寺用水が個人宅の中を流れるのは、東堀ではここだけ、西堀では用水の開削に尽力した富沢家及び佐須村のTK家の3ヶ所しか無い。富沢家以外の2つの家も用水開削にあたり多額の費用を負担したのだろう。現在もTM家の邸宅は健在のようだ。そして南側に進んでいくと、突然コンクリート蓋暗渠が現れる。
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コンクリート蓋の始まる地点を下流側から見たところ。左奥の木の茂みの先がT家邸だ。かつて水路は左側の路地から直角に曲がって蓋暗渠となっている区間につながっていた。
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蓋暗渠は隙間もなくはめられていて、遠目には普通の歩道に見えなくもない。浅い谷戸の西縁に沿って自然に蛇行する様子はなかなかだ。ぴったり沿っているのは、谷戸を囲む丘の上から流れこむ雨水を余すところ無く取り込み利用するといった意図もあったという。
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所々には鉄製の蓋が設けられている。
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谷戸の斜面から暗渠状に降りる階段もぽつぽつ。浅く緩やかな谷なので、あっても短いものが多い。境目の植物が彩りを添える(写真は上流方向に向かって撮影)。
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道路を越えるところは橋のような一体型のコンクリート。ボックスカルバートが埋められているのかもしれない。
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下って行くにつれ、いつの間にか暗渠の幅が広くなっている。先ほどの鉄蓋は長方形が2枚だったのが、ここでは正方形が2枚。用水路ならば、幅はあまり変わらないはずなのだが、雨水や湧水も取り入れていたからなのか、それとも排水路化先した後の変化なのか。そばではスズメが草叢をつついていた。
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原山通りの手前で再び蓋暗渠は姿を消す。かつて水路はこのまま直進した後、やや複雑に曲がりくねって、「二段水路」、そして「隧道」へと向かっていたが、現在その痕跡はない。一方で、ここのすぐそば、写真中央の、道が右側にシフトする突き当りにある家の手前を左(北東)に下る道に進むと、別の暗渠(水路跡)が姿を現す。
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写真右奥が先ほどまでたどってきた蓋暗渠、手前左がその暗渠の道。クランク状(_┃ ̄)の位置関係となっている。右の家沿いには側溝とも暗渠とも言える幅1m弱のコンクリート蓋が先の暗渠から続いてきている。
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見るからに暗渠や川跡であることがわかる路地である。先の深大寺用水東堀から、東に20mほどずれて並行している。そして更にこの東20mに平行して、入間川の暗渠が流れている。この路地はいったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。
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そこには水を巡るシビアな闘いが浮かび上がるのだが、その話は次回に。次回は上流方向に戻り、野が谷の谷戸東縁を通っていた深大寺用水東堀の分流と、入間川源流部の川跡をたどってからこの水路に戻ってみよう。


by tokyoriver | 2011-12-09 00:26 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)
またもや久々の更新です。10月、11月としばらく間が開いてしまいましたが、今月から何とかペースを取り戻したいと思います。今回から何回かにわたって、かつて三鷹市から調布市にかけて流れていた玉川上水の分水「深大寺用水」の暗渠/川跡を、関係の深い野川の支流「入間川」とあわせて紹介していきます。深大寺用水に関連する水系は、東京の水2009バージョンを再開する前から探訪を重ねていたのですが、なかなかに奥が深くて、記事にするタイミングを測りかねていました。先日久々に現地を訪れ、またも新たな発見があったりしたので、思い切って記事を開始してみることにします。

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まずは関連する水路の全体を地図で見てみよう。深大寺用水の玉川上水からの取水口は、流末の京王線つつじヶ丘駅付近から遡ること約30km、昭島市つつじヶ丘(!)の松中橋のたもとだ。といってもここから分水されているのは「砂川分水」(地図上部を玉川上水に平行して横切るオレンジ色のライン)だ(※この分水口については、柴崎分水の記事中に写真を掲載)。砂川分水は五日市街道に沿って、一旦玉川上水から離れた後に再び上水に接近して並行し、小金井分水(細いオレンジ色ライン)を分けた後、梶野新田分水(水色のライン)につながり南下、そしてその末端に深大寺用水がつながっている(青いライン)。(※なお、小金井分水と梶野新田分水の間を縫うように折れ曲がって通っている青緑のラインは仙川の上流部で、悪水路として機能していたと思われる。)
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「砂川分水」は1657(明暦3)年と、玉川上水開通のわずか3年後に開削されたかなり古い分水だ。また、「小金井分水」は元禄年間(1688〜1704年)、「梶野新田(呑用水)分水」も1734(享保19)年頃と江戸時代中期以前に開通している。これらはいずれも開通当時は玉川上水から直接取水されていたが、1870年(明治3年)、玉川上水通船事業に伴う分水口の統合が施行された際に、玉川上水右岸(南側)側は砂川分水が上水沿いに延長されて、各分水の分水口はそこに接続され、その分だけ砂川分水の取水口での取水量が増やされた。
「深大寺用水」の開削はその翌年の1871年。砂川分水の取水口は、更に深大寺用水に流す水の分も広げられ、深大寺用水に至るまでの水路も拡幅された。そんな訳で、砂川分水の中下流部まで含めて深大寺用水と呼ばれる場合(国土地理院の地図などで表記)や逆に下流部まで砂川分水と呼ばれる場合もあるようだが、ここではひとまず、新規に開削された"狭義の意味"での深大寺用水、つまり、梶野新田分水の末端より下流側をたどっていくことにする。

なお、砂川分水の区間も含めた広義の深大寺用水については、本サイトからもリンクを貼らせていただいてるimakenpressさんが丹念な調査結果に基づいた記事を書かれている。推測の部分もほぼ同意できるし、とても読みやすくまとめられていておすすめだ。

下の地図は"狭義の意味"での深大寺用水の流れるエリアをクローズアップしたもの。図の左上が梶野新田分水の流末で、それにつながる深大寺用水はすぐに西堀と東堀の二手に分かれる。中央に向かう青ラインが深大寺用水東堀、いったん神代植物公園方面に南下した後東進しているのが西堀だ。東堀上流部では入間川の水源を挟んで二手に分かれている。紫色のラインと濃い緑のラインは自然河川。深大寺用水東堀と付かず離れずの位置に流れるのが入間川である。黄緑色のラインは「仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)」に関連する水路。一見、品川用水から分水されているようにみえるが、実は仙川用水は品川用水よりも古く、分岐点まではもともと仙川用水だったといわれている。用水は途中入間川の流れを利用した後、再度そこから分かれて野川に注いでいる。深大寺用水東堀の下流部は、この仙川用水流末をそのまま利用している。仙川用水は情報が少ない上に、資料によって記述が異なったり名称の紛らわしさによる混乱も見られ、未解明な点も多い。その存在は深大寺用水/入間川の水路の変遷の謎解きを複雑なものとしている。追々記事の中でふれていく。
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深大寺用水は、先に記したように1871(明治4)年に開削された。水路開削の発端は1855(安政2)年の安政大地震で「入間川」の水源の湧水「釜」が地震の影響で止まってしまったことにある。これらの経緯についても追々触れていく。用水は戦後しばらくまでの間は利用されていたが、昭和38(1963)年2月に水利権組合である「砂川村外七ヶ村用水組合」が解散してその役割を終え、排水路化したり埋め立て・暗渠化された。現在残っているのその痕跡を以下、たどっていく。
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人見街道と武蔵境通りが交差する三鷹市野崎交差点の北西、梶野新田用水(の野崎分流)であった区間の流末。ここだけなぜかコンクリートの蓋暗渠が残されている(09年3月撮影)。このすぐ先、野崎交差点から深大寺用水が南下していた。
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野崎八幡の北側で武蔵境通りと別れてまっすぐ南下していく(写真左側の道)。70年代までは埋もれかけた水路が残っていたようだが、現在は歩道となっている。写真は2008年6月撮影のもので、現在は武蔵境通りが拡幅されている。
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水路跡の道は東八道路を越え、ドン・キホーテの脇を南下していく。この区間は痕跡らしきものは見当たらない。強いて言えば、ドン・キホーテ敷地と道路の間にある、所々に木の生えた帯状の空き地だろうか。深大寺用水はこの先で、T字で「東堀」と「西堀」の二手に分かれていた。西堀は一旦分かれた武蔵境通り沿いに再び戻り、深大植物公園の方へ流れていく。そして今回追う東堀は、東の入間川源流地帯へと向かっていく。
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水路の分岐点だったT字路を東に向かうと、道路から分かれた水路との敷地が姿を現す。入り込むことはできないが、周囲を回りこんでいくと、民家の裏手を抜け、佐川急便の配送センターの敷地内では砂利敷となって残っているのが見える。
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佐川急便配送センターの東側の水路跡はこのような未舗装の路地となる。ここは抜けられる。
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抜けた先、カクンと短い坂を降りると、入間川源流の浅い谷戸「諏訪久保」の突端に出る。水路はかつてここで更に二手に分かれ、谷戸の中央を流れていた入間川を囲むように、谷戸の東縁と西縁を南に降っていたという。谷戸は水田となっていて、入間川は水路から田に引き入れた水の排水路の役割を果たしていたようだ。入間川源流と東縁の水路はいまやほとんど痕跡を残していない(次々回あたりでとりあげる予定)が、西側の水路は70年代頃まで排水路として残っていたようで、この辺りでは不自然な歩道にその面影を残している。
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不自然とはどういうことかというと、車道と歩道の段差がやけに高いのだ。段差は護岸状のコンクリートとなっていて、穴を埋めたような跡もある。
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沿道の家の出入り口などでは、歩道の路面はスロープがつけられているが、このコンクリートはそのまま高さを保った後にバッサリと切り取られている。この様子から察するに、コンクリートはもともと水路があった頃から存在していて、護岸の役割を果たしていたのではないかと思う。
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歩道の上には古びたコンクリートのマンホール。
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道路はそのまましばらくまっすぐ南下していくが、水路は地形に沿って東にそれていく。ちょうどそれに合うように歩道が尽きて、東(写真左奥)に雰囲気のある水路跡の道が下っていく。
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水路跡の道は、諏訪神社の脇を緩やかに下っていく(流れは写真奥から手前)。諏訪久保の地名はこの神社に由来するのだろう。そしてここにはかつて水車が設けられていたそうだ。
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そして諏訪神社の参道入口で三鷹通りに出る。白い車止めがささやかに水路跡を主張している。ここから先、コンクリート蓋暗渠や二段水路跡、隧道跡など興味深いポイントが続くが今回はここまで。
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(つづく)
by tokyoriver | 2011-12-04 23:39 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(6)